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体の中に耀る月 4

息子と勉強
最近忙しないです。
小説を書く時間が潰れています



俺は何しにここへ来た。

それより紀子は何しにここへ来た?

「ちょっと、お手洗いに行ってくるわね」

 中年女が、席を外した。

飲むのを躊躇っていたが、洒脱なカップに注がれた紅茶を、啜る。渋い。それが美味しいのか美味しくないのか、判断が付かない。女が席を外している間、ふと、隣に座る典子の顔を見て、睦はギョッとした。なんの感情もない。苔むした阿羅漢の像のようだった。

「せ、先生」

小声で問いかける。

「俺、帰った方が良いかな」

「あ?」

やっぱり怒っている。

腸に怒りを湛えている。

「だって、何もすることないし、あの人、俺の事嫌ってるみたいだし」

「アンタ、ここに茶飲みに来たの?」

怒りの矛先が、自分に向いていることを悟りすくむ。どうして俺が怒られるんだ。

「じゃあ、どうすれば良いんだよ」

「そうね。あの人に気に入られるよう振る舞いなさい。とりあえず褒めて」

なぜ。そう思ったが、憮然とした表情の典子に逆らえない。とりあえず従う。

「わ、わかったよ‥‥。ともかく褒めれば良いんだね。」

「待ちなさい。頓珍漢な事言わないか不安だわ。まず、この間来たときと、カーテンと絨毯が違うわ。グスタビアンスタイルの雑誌でも見たんじゃないかしら。そこを褒めて」

「ぐ、ぐす?なんて?」

「ことばは覚えなくて良いわ、別に。むしろ、『雑誌で見ました。何というんですか?』ぐらいの方が、あの人は喜んで話すわ。」

典子は、あの中年女を見下しているのではないか。睦は、ふと思った。

では、彼女はどちらなんだろう。嘘吐きか「自分を守れない」人間か。

典子は続けた。

「あとは、ひたすら相槌をうちなさい。相槌の語彙はどれくらいあるの?」

「ゴイってなに?」

典子は、こめかみを押さえた。

「じゃあ、相手の鼻あたりを見て、頷いていなさい。相手の話を全部聞かなくても良いわ。いくつか耳慣れない単語だけを拾って、『それは何ですか?』って聞くの。そうしたら話は途切れないわ」

「分かったけど、そんな事して、何になるの?」

「アレに好かれるためよ」

アレって。中年女のことか。

睦は、典子の意図するところ分からないまま、ただ、言うとおりにした。確かに、典子の言うとおりになった。睦が、真剣に話を聞いている(フリをしている)と、中年女の態度は、次第に柔らかくなっていった。

「今時の子とは違う」とか、「感心だ」と言って、しきりに、茶と茶菓子を勧めた。

睦はいい気分になれない。気味が悪かった。典子の言うとおり、彼女の口にする単語をいくつか覚えるだけで、話そのものは聞き流していた。睦は、ファッションにも、インテリアにも、家庭円満の秘訣にも、興味がない。彼女の娘の、「敦子」の事ですら、それらしい名前の生徒が、クラスメートにいたような気がするが、記憶がおぼろである。

中年女は、青いライラックの模様が描かれたティーポットとともに、キッチンへ立った。睦は、冗漫な話を聞く(フリをする)のに、うんざりしていた。小声で典子に話しかけた。

「先生、俺もトイレ行きたいんだけど」

「そう」

典子は、おざなりに返事をしただけだった。たまらず、今度は中年女に尿意を告げようとした。その前に典子は、睦の聞いたことのない 柔らかな声で、言った。

「あの、睦君がお手洗いを貸して欲しいそうです。ずいぶん緊張したみたい」

「あらあら、ちゃんと返してね」

中年女の返事。返してね?冗談か。全然面白くない。睦は、憮然として立ち上がった。

「待ちなさい」

アルトな声。どうやら典子には二つ喉があるらしい。睦は思った。

「廊下へ出るついでに、二階に、敦子がいるか確かめて」

「人んち勝手にウロウロするのなんか、嫌だよ」

「アンタはウロウロしなくても、できるでしょう」

そうか。典子は、睦に、彼特有の「感覚器官」を使えと言っているのだ。

はあ、もう嫌だ。意味も分からず、典子に顎で使われるのなんか。中年女のご託なんか、くそ喰らえだ。睦はリビングを出て、そのまま帰ってやろうと思った。

‥‥帰る前に、もう一度だけ、従ってやるか?

ひょっとして、典子は睦を、便利な子分、ないし道具を見つけたとでも思っているんじゃないか?だとしたら、典子なんて怖がるのもばからしい。ただの嫌な奴じゃないか。

廊下に出て上を見上げる。ゆっくり息を吐く。返ってくる波動を感じるため、神経を集中させる。

廊下の北側に、八畳ほどの部屋。そこに、人らしいシルエットを感じた。典子にその事を伝えるべきか、そのまま帰るという、自分の反抗心に従うべきか悩む。反抗心はもちろん、明日も、明後日も、試験だ。睦は、勉強熱心ではないが、日が傾いてきて、ようやく自分が全く勉強していない事に、不安になった。

そのうち、二階のシルエットがスッと動き、廊下の端にある階段へ向かっていることを感じとり、睦は、焦った。

ヤバイ、見付かる。いや、すぐに考えを改める。ヤバくない。ちゃんと、女主人が睦の訪問を了承しているのだから、敦子、他のどんな家人に見付かろうと、ヤバくない。睦は、廊下に立ち尽くした。

敦子ってどんな奴だっけ。見たら思い出すだろうか。

コの字型の階段を降りてくる誰か。まず、細い足先から睦の視界に入ってきて、上へ上へと全身像が露になっていった。睦は息を呑んだ。

これは並々ならぬ美少女。目尻から真っ直ぐに通り上品につんととがった鼻。その下に珊瑚色の小振りな唇。ドングリのように愛らしく円らな瞳。こんな子、クラスにいただろうか。睦がことばを発せずにいると、敦子から「いらっしゃい」と話しかけてきた。

「あ、どうも」

敦子は、リビングとトイレの間、廊下の真ん中に佇む睦の脇をすり抜けて、外に出ようとした。5月の穏やかな空気が、開けた戸の隙間から入り込んだ。

「具合悪いんじゃないの?」

典子と中年女の話を思い出し、聞いた。

「普通」

敦子が出て行くのを眺めていた。パタンと音がして、静寂。女が夢中で喋り続ける声が、廊下に漏れていた。間もなく再びドアが開き敦子の顔が半分だけ現れた。

「一緒に行く?」

「あ、うん」

咄嗟に返事をしてから、なぜ、「あ、うん」なんだ、と思い返した。そして次に、どこへ行くんだ、という疑問が浮かんだ。しかし、それを口には出さない。可愛い女の子。睦はドキドキしながら付いて行った。

睦は、敦子の豊かな黒髪を眺めながら、歩いた。まだ日は高かった。静かな住宅街、睦と敦子以外、人通りは疎らだった。

一緒に行く事にしたものの、睦は敦子をよく知らない。学校を休みがちの女子が教室にいた気がする。それが敦子か?敦子が、なんのために睦に声をかけたか、わからない。人懐こい性格ではないようだ。むしろ、無口で表情に乏しい。典子のように刺々しいわけではないが整った容姿が睦に深窓の令嬢といった印象を与えた。尻込みしてしまう。

敦子の向かった先は、なんの事はない、公園だった。広いグラウンドの中央には、砂場。公園ぐるりには杉や松、銀杏の木が植えられている。木々を囲うように巡らされた煉瓦の内側には、ジャングルジムや、ホッピング、滑り台といった遊具がある。この歳で公園か。敦子の美しさに魅せられていた睦は、にわかに冷静になった。

「俺、戻った方が良いかな。今日は先生と一緒に、お見舞いに来ただけなんだ」と言った。

「さあ、ママは、たぶん睦君がいなくても気にしないと思う」

「そ、そう」

敦子は、母親とは逆に、ことばが少ない。しかし、相手の返事を気にせず、待ちもしないという点では同じだった。敦子は、鉄棒を逆手に持ち、グラウンドを蹴る。逆上がりをしようとしているらしい。睦は、ワンピースで逆上がりをすると、下着が丸見えになるのでは、と一人赤面した。しかし、すぐにそれが杞憂であることに気づく。

袖から続く、細い腕。腕と変わらない太さの華奢な足。どこにも筋肉が無さそう。どれだけ繰り返しても、地を蹴る両足は弱々しく、せいぜい鉄棒の丈程度で勢いを止めた。肘も伸び切っている。

成功する見込みがないから、重力が反転してスカートがめくれる事もない。大丈夫だ。睦は少しがっかりもしている。

敦子は、読んで字のごとく無駄な足掻きを止め、睦に

「どうすればできる?」と聞いた。

「ずっと練習してるのに、できない」

ずっとって、いつからだろう。

「勢い付ければ良いんだけど。口で教えるのは難しいよ」

「じゃあ、やってみて」

敦子に促されて、鉄棒に向かう。睦自身、小学生以来だが昔とった杵柄。肘に力を入れて、グッと地を蹴ると、体は地と平行の鉄棒を軸に、すんなりと回転した。

「わーすごい!」

敦子の顔が、一気に紅潮した。その顔の可愛らしいこと。睦の本能は、再び一瞬で彼女に惹き付けられ、気が付くと呟いていた。独り言のように。

「あの、俺と付き合ってくれる?」

「え?」

敦子は目を丸くした。睦は恥ずかしくなって、しどろもどろになった。まごついているうちに敦子は

「嫌」

恬淡と拒否した。告白を退けられたことは当然だった。睦は、敦子と入学以来今初めてことばを交わしているのである。何てことを言ったんだ、俺は。恥ずかしい。ショックだ。

しかし、続く敦子の

「痛いのが嫌いだから」

という返事に、違和感を持ち、

「俺、痛い事なんかしないけど‥‥」と、小声で反駁した。

痛いのが嫌、とはどういうことだろう?体が?心が?どちらにせよ、それは、付き合った果てに二人がうまくいかなくなった時の事じゃないだろうか。

敦子は続けた。

「男の子は汚いし」

敦子のことばに、さらに傷付いた睦だったが、聞き覚えがある。

「それ、君のお母さんが言ってたこと?」

「うん」

敦子は頷いた。

「お、俺はちゃんと、風呂に入ってるけど‥‥」

度々入浴をサボる事は、伏せておく。

「ふうん…じゃあ睦君は普通の『男の子』じゃないんだね」

睦は驚いた。寸暇の考えの後気付いた。「男の子は汚い」という母親のことばは絶対で、例外がない。睦は違う、というのなら、それは、母親のことばに誤謬があるわけではない。睦の方が、母親のことばの「定義外」のものとなるのか。反抗期である睦は、親に限らず、教師にも無闇に反抗してみせる。敦子の並外れた素直さに、睦は混乱した。ふざけているのか。真剣なのか。そんな睦の胸中を更に引っ掻き回すように敦子は続けた。

「じゃあね、私のお願い聞いてくれたら、彼女になってあげるね」


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