関西への風評被害ー2
紹介記事を書いていただきました。
PFアキ🐬✨(広報)さまは、こちらのアカウントでは、鋭い着眼点でnoteクリエイターの紹介記事をたくさん書いていらっしゃり、
もはや紹介記事を書くPFアキ🐬✨さまの、人を励ます・人をサポートする、支えるのが好き、というお人柄が表れていて、素敵。
noteには、こういう使い方もあるのだな、と、勉強になります。
関西への風評被害ー2
私は生まれも育ちも大阪ですけど、「っぽくない」とよく言われます。
それを言うのは、大体府外から来て、自分の住んでいた地域に根拠があるのか無いのかよく分からない、プライドがある人ですね。
いちいち喧嘩はしないので、「両親はどちらも大阪出身じゃないからかな?」などと返事をしていますが、
理で追い詰めるのなら、
大阪人っぽくないとか、大阪人っぽいとか、わざわざ言う意味が分からないです。
私と交流する前から、大阪人ならこう、みたいなイメージがあるのって、面倒ですよね。
方言を使って話してって言ってくる方言フェチと同じくらい面倒。
どうして出身地のイメージに左右されなあかんの、と?
すごくキツいことを言うと、他者とのコミュニケーションにおいて何にも考えない無神経寄りの無神経な人が、「○○人っぽい」と言うんです。
あなたの出身地を教えてごらん?
○○人って平均より無神経なんだなって思われたら、嫌でしょう?
自分単体が無神経と思われるより良いみたいな、死なばもろとも思考の人は気にならないのかもしれないけど。
別の言い方をしてみます。
「○○県人っぽくないね」
って、「田舎出身なのにあか抜けてるね」みたいな、底意のあることを言われて嬉しいですかね??
そうでないなら、関西人っぽいとか○○県人っぽいとか、え、なに?てなりますよ。
よそから見て自分がどうか?なんて、ハッキリ分からないし、都道府県単位で違うのか?と。地政学的な違いはあるんですけどね。東京は坂が多いから○○台みたいな地名が多いけれど、対して大阪は河が多く、水の都という異名があるから、水に関連した地名が多い、など。
土地が違えば人の性格にも、なんらかの特徴はあるでしょう。
けれど、人類社会学とか専門で学び証明でもしていない限り、一般論のほとんどは偏見ですね。
みんな大好きIQテストを作った人は(記憶頼りなので名前を伏せます)、黒人差別論者だったことが知られており、自身の提唱したIQテストで「ほらね、黒人は白人と比べてIQが低いんだよ」と証明しようとした…という逸話があります。
ある真理を証明するには、まず仮説を立てて、事例を集め論理を組み立てるんですが、
真理の追求よりも「これを証明したい」という自分のお気持ちが先に立ってしまう人は
無意識でも、もちろん恣意的にも、「自分の仮説に合う事例を集める」傾向があります。
別にこれは、頭が悪いから考えの偏りが起こるわけでなく、むしろ、頭のいい人ほど、少しでも偏ると、次第に誰の意見も聞き入れなくなり、陰謀論とか人種不要説とか、極端な意見に走ることが知られています。
また、風呂敷が少しずつ大きくなって参りましたので、無理やりまとめると、
あるブログコメントに、関西人の偏見があってムッとした。けれど、頭が悪いからだ、ではなく、私はこの偏見を、「性格が悪いからだ!」と訴えたい、ということです笑
オマケですが、昔、似たようなことで、イラッとしたことがあります。
これもブログなんですけど、そのブロガーさんはとても人気で、時々ブログに寄せられたコメントを掲載して、読者いじり、みたいなのをしてくれる人でした。
たしかそのブログは、日本語について?みたいなテーマで(うろ覚え…)、私は、サンキュータツオさんの日本語フェチズムに啓発されていて、若者ことばを使ってコメントしました。
「「そま」(※それまじ?)とか、「あざまる水産」とかありますね。面白いですよね」
的な、いや、もっと一所懸命、若者になりきって、用法を大きく間違わないよう、若者だと思ってもらえるようなコメントを書いたと思います。
そのコメントは「面白い」としてピックしてもらった、ところまでは良かったんですけど、他の読者さんたちですね。
「これを書いたのは若者に違いない。日本語が乱れている。嘆かわしい」
みたいなコメントが、けっこうありました。
意図としては、若者に間違われるように、ブログで試したわけだから、大成功だし、ラジオの葉書みたいに、アンカーに読まれるのは嬉しいことなんですけど、ブロガーさんが私のことをとりわけ気遣ってくれるわけでもなく、吊し上げみたいな状態になったことに萎えて、そのブログは読むのをやめてしまいました。
今でも別にブロガーさんには悪感情を抱いていないです。よくも悪くも、ブログとかSNSって、読者とインフルエンサーの距離が近いから、そういう場所だと、認識するには良い経験・良い挑戦だったと思っています。
ただ、私は当該ブログの読者を静かにやめて数年経つので、今さらだれも当時のことを知らないだろうから自己主張しますと、偏見を誰にも指摘されないからと、堂々と守り育てるのは、大人としてこの上ないほど恥ずかしく嘆かわしいことだと思うのです。