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嫌よ嫌よも好きのうちってあれ、なんなん?

小林麻耶さんと市川海老蔵さんの報道を読んでいて、小林麻耶さんのほうが部が悪いと感じるんですけど、やっぱり市川海老蔵さんが生理的に受け付けなりつつあります。


法律的に問題なくても、

子育てを逝去されたお嫁さんの母親、義母に頼るとか、

そのお嫁さんが亡くなって間もない頃に義理の姉を襲う、とか、

小林麻耶さんの今の発言を十全には受け入れられなくても、子どもたちの伯母さんとして今まで預けてきたものを会わせなくするというのが、


小林麻耶さんのいう愛がなんなのか、私にはブログを読んでもニュースを読んでもよくわからないけど、市川海老蔵さん、ひいては梨園の常識?に、あまり情を感じません。



私は毒親育ちを自称しています。

実母とは音信不通になって四年になります。なので、執着するのは愛ではない、もしくは、愛とは「ゆきすぎれば有害である」と感じています。


イギリスの詩人のことばで、

「全く愛していないより、愛して失うほうが良い」というものがあります。

私はこのことばが好きで、誰かに裏切られたと感じて悲しくなったり怒ったりしても、最後には少しでも、自分は人を愛せたと、誇りを持っていたいと思います。


ただ、どういう形で・・・っていうのは、未だによくわかりません。

絶縁していても毒母と血がつながっていますし、根本的な考え方はどうも似ていると思うんですね。

要は、「相手の意志を確かめずに、これが愛だと押し付ける行為を重ねること」です。


自分はそれで満足かも知れないけど、愛を押し付けられた人には、迷惑に感じられることがあります。


シンプルに、まずは人の話をよく聞いて嫌がることをしないっていうのが、毒親にも「嫌な奴」にもならず、良き隣人に方法かな?と、感じますが、なにぶん愛を語るには私の人生道半ばです。



15年前、ハイティーンから明らかに変わったのは、時代とともに、愛されるより愛したい、になったところです。

毒親という表現がピッタリな母親ながら、一応私には愛が蓄積された時代があった?と、捉えるべきでしょうか。

それで、思春期の頃はロマンチックな恋愛話にかぶれていて、「ちょっと強引なオレサマ系」が好きっていう、危険思想の持ち主だったんですけど、


フィクションでよくある設定と現実の違うところは、「一人の女性を生涯かけて愛せるほど強い男性は、そうそう存在しない」ところです。男性にとっても女性にとっても悲しいことかも知れません、


あなたしかいない

君しかいない


そういう観念が稀で、まず9割9部は、ある程度の条件を満たせば、誰でもいい、という観念が存在します。

人としては悲しいかも知れないけど、群れ、社会を作る生き物としては、環境によって考え、それから対応が変わるのは当たり前ですし、「心変わり」を責めることは誰にもできないはずなんですね。


そう、思春期から20代はじめ、王子様を求めていたころ、私好みの「ちょっと強引な(多股の)悪い男」がいて、けれど急激に冷めた出来事が、かつてありました。


働き始めて数ヶ月、久しぶりに会おうということになって話をしたおり、その男性が

「だいぶカード(話の流れ的に彼女候補の女友だちのことです)が減ったわ」と言ったのです。それが私の感じた絶対零度でした。


今、吉野家の常務の、「女性蔑視」不適切発言が話題になっています。そのことが問題になったのは、発言そのものだけでなく、日常的に言ってたんだろうなー、そういう考えの人なんだろうなー、という背景をかんがみた女性たちの反感が強かったのだろうと思います。


ひとりの男性にどれだけ能力や魅力があって、更に、仮に構ってほしい気持ちに振り回される寂しい男だったとして、社会の構造が変わりつつあり、その変化に対応している女性たちからすれば、女性をナチュラルに下に見る発言が飛び出るのって、「脊髄反射的に不愉快に感じられるもの」なんです。

100年の恋も冷めるわな。





ところで、周りを取り囲む時代錯誤の概念のひとつに

「嫌よ嫌よも好きのうち」があると思います。

最近は、草食系男子どころか「絶食系男子」と呼ばれる人たちもいるらしいですから、女性に好意を抱いているからといって、ちょっかいを出す、とか、逆に嫌がることをする人は少なくなっている気もするのですが、今の女性の多くが、


いや、嫌なことは嫌ですぞ?


と、思っていると思うのですよ。


なぜそこで、忖度している具合で、真逆の感情として読み取るのか。



市川海老蔵さんの多股報道で、そこには海老蔵さんだから、と、麻痺しているものがあると感じるのですけど、


結婚していようがいまいが、多股って女性にとっては嫌なことです。「容認」できても推奨されるようなことではない。


生理的な嫌悪感、というのがシンプルな話ですけど、こういう女性の本能的な嫌悪感って、高度文明化された社会でも蔑ろにはできません。だって男性のすべての性交渉、そのリスク管理を把握できない以上、性病を感染される可能性があるからです。

コッソリ浮気したら、それはパートナーである女性の自尊心どころか健康も蔑ろにする行為です。法律的には結婚してるかしてないかが問題の焦点になるだけですけど、女性が浮気不倫多股に感じる不快感って、結婚前後でそう変わらないと思うんですよ。


強いて言うなら、結婚したからには、女遊びを控えるだろう、という安心感が増すぶん、不貞行為が発覚したとき嫌悪感も増す、ぐらいのことじゃないでしょうか




浮気不倫多股オッケーの人って、男女に限らず二種類だと思うんですね。



ひとつは、自分もその時々でステディを一人に限らない、性に奔放なので、相手にも強制しない。


もうひとつは、多人数の一人としてしか相手にされない。


モテるモテないの原理の外にいるか、「モテない人」が、「けっこう誰でも良い人」に甘んじるか、どちらかです。


他人の恋愛は悲恋であれ浮気であれ不倫であれ、聞くぶんに割と楽しいものなので(最低かも知れませんが、源氏物語が今も昔もずっと流行っている以上、そういうことでしょう)、市川海老蔵さんが本気で嫌いっ!と、まではいかないですけど、個人的には


市川海老蔵さんを養護する声が強いように感じられることには、小林麻耶さんが気の毒だな、と思ってしまうぐらいには、まあちょっと、市川海老蔵さんて嫌な奴だな、ぐらいには思っています。






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