【簡単】毒親チェック
1月は行く
2月は逃げる
そして、3月ですね。
会社の期の締めがもう少しあとなのでこどもを生む前は感じなかったのですがわ春という節目に忙しなさがあります。
進級説明会とか進級用園閉園日とか、イベント・準備にいろいろあります。
主人と分担するので大体月二日程度の有休におさまるようにできていますけど、いくら高給取りでも、私は一人で子供を育てる大変さを想像することができません。
体は・・・一つですよね?
さて、まあもうしばらくすれば綿布団でなくても暖かく寝れると思いますが、今はまだモコモコです。
これも結婚する前一人暮らしのときベッドで寝ていたために起こった変化ですが、敷布団に変わりました。
個人的にはマットレスより布団のが好きです。
けれど、古い布団なので重たくて。
母親には、綿かけ布団に敷き布団を乗せるとペシャンコになるから、敷き布団を先にしまいなさいと教わっていたのですけど、
なんと私は最近、かけ布団の上に敷き布団を乗せています。
旅館でお勤めはできそうに無いですね笑
この順番だと、出すときも
敷き布団→掛け布団
と敷けるので、一応メリットはあるんです。
スタックってやつですね。
それで、ものすごく我流で簡単な毒親チェック方法を思いついたんです。
思いつくというのすらおこがましい、くだらない事ですが。
10代〜の子どもさん、母親に
「今までのやり方を変えること」
気軽に提案できるでしょうか?
もちろん自分ではやらない事をいろいろ指図されると誰でも嫌な思いをするので、基本・自分の仕事、家事と仮定して。
「自分はこうしたい、この道具を使いたい」
というのを、言えるか?
その1
言える(というか、なぜ言えない?それが分からない)
その2
提案を呑んでもらえるかどうか言い方やタイミング次第だけど、言うだけは言える
その3
どんな言い方をしても提案を呑んでもらえる姿が想像できないし、何を言われるかわからないから、多少不満はあっても我慢する。
当たり前ですが、
その3を選ぶ人の親は、毒親度が高いです。
家事について昔のやり方にこだわることが悪いとは思わないです。洗濯板ブームが再来していますし、シンプルな道具のほうが応用が効きます。
しかし、昭和はじめの「恥の文化」及び毒親というのは、一周まわって戻ってくるのではなく、基本、不動です。
「子どもに間違いを指摘される」
気がするだけで、もう駄目なのです。
実母についてちょっとよく分からないのが、酸素系洗剤と塩素系漂白剤のことです。
みなさまもよくご存知なように
塩素系漂白剤に酸素系洗剤を混ぜると、殺菌成分の塩素イオンが参加され、呼吸器系に有害、急性毒性のある塩素が発生するため
「混ぜるな危険」なのですが、
約5年前、「魔の里帰り出産」のとき、母親はなぜか「クエン酸系の洗剤は危ないから何とも混ぜちゃダメ」と言うのです。
母の脳内でどういったミッシング・リンクが起きたのか、今でもよくわかりません。上記の説明をしても、ピンと来ないらしい。
そりゃ母親と話せるのなら、クエン酸はレモンにだって入っているし、なんだったから分子レベルまで分解して、何が危ないのか、理屈を捏ねることはできます。
ただまあ、言っても無駄・・・な、わけですよね。この感覚を説明するのは難しいです。
母親は、決してボケているわけではありません。私のことを理屈屋でバカだと思っていて、対して自分は賢いと思っている・・・と書くと、かなり悪し様ですけど、
けれども、一歩二歩引いてみれば、大人一人が急性中毒を起こすほどの塩素って、誤ってこぼすとか発生してもその場から逃げられないとか、他の要素か絡んでリスク実現すると思うので、母の思う通り確かに「知っておかなくてはならないこと」では無いのです。
さて、毒親とその子どもの微妙な距離感。
良い面と呼べるものはありますが、総じて「良いもの」ではないので、こういうのを読むと、心が痛いです。
依存関係をなるべく早く断ち切らないと、自分の人生・・・リカバリーにとてつもない労力を要します。
私とは特に関係は無いですけど、こういうのを読むと、「概ね解決した問題」といっても、心が苦しくなります。
苦しんでいるときは特に「言語化」は難しいし、解決したからとてそう易易と分かってもらえないと、SNSをやることで分かりました。
うちの母親は「ここまで酷くはない」と書いておきますが、
「誘導」は、気付いている分でもたくさんありますし、気付いていないレベルでもたくさんあると思います。
人格否定にあたる暴言は、まあデフォルトでしたし、他の兄弟を味方につけて、家族の中に一人「スケープ・ゴート」を作るやり方が、実母にはありました。
けれど他の兄弟を恨むかというと、必ずしもそうではありません。
どちらかというと・・・
スケープ・ゴートにされたほうが、「まだ良い」とさえ言えると思います。
毒親問題の何が問題か、
人間関係がうまく築けない、破綻する、なんとかやれても著しい我慢を要する(家庭内でモラハラパワハラ、毒親の連鎖が起こる)
ということなのですけど、
理不尽な目に合えば、そりゃ気づくキッカケが増えますが、誰かを落とすために上げられた人間は、より「理不尽に気付きにくい」です。
今まで付き合いのあった人から見ると、両親には可愛がられていたけど、仕事がイマイチ、結婚もうまくいかないというような、両親以外に居場所を作れない「スポイル」パターンをよく見かけます。
シンドくなりながらも
つい読んでしまいますね。
「二十数年前、自らの再生をかけ父親を通して「家族療法」を提案したが、母親は自身の虐待行為を全面否認。以来、実家とは音信不通のままだ。虐待の加害者である母親は、自らの行いをなかったこととし、思うようにならなかった息子など要らないとばかりに放逐した。池井多さんの生活保護の扶養照会にすら、応じなくなって久しい。」
本気で母親は虐待したなんて思っていません。たとえばしつけで手を上げることの意味、ここ数十年で大きく変わりましたけど、昔のことを今の基準で判断されても困る、ということなのだと思います。
ただこれ、裁判では無いのだし「家族療法」で第三者を介して家族関係を良好にすることを、拒否するのがよく分かりません。
実母もそうなのですが、プライドとか潜在的な恐怖、もしくは全くの無関心、怠惰、全てが絡み、親をそういう行動にさせるのでしょうか?
毒親とは、弱い人間です。
そして、強さとは、「人が欲しがっているものを与えられる人間」のことだと思います。
子どもが和解のために動いているのに、協力を拒否するのは、非道とは思わない、ただ、弱い人間という証だと思います。
「母親から洪水のように浴びたのは否定や侮蔑、人格蔑視の言葉だった。思いつくままに杉本さんが羅列してくれた。」
これはツライ
「いやらしい」「わざとらしい」「カッコつけちゃって」「気を惹こうとしている」「ひねくれている」「わがまま」「自分ばっかり」
うん、あるある。
母親に甘えようとすると、「いやらしい」と言われ、料理が美味しいと口にすると「わざとらしい」。本を読もうとすれば「あんたはそんな身分じゃない、調子に乗るな」。杉本さんは母の憎々しげな口調まで、ありありと思い出す。
そうなんです。
全く褒められないわけではないけど、一般的に褒められるようなことをしても、親の機嫌や考えが優先されます。それでめちゃめちゃ傷付くことがあります。
「僕が罪悪感を持つように、蔑むように言ってくる。僕は一度として受け止められたことも、肯定されたこともない。僕のすることすべてを母は否定した。常に母親から睨まれていて、僕には安心という経験がなかった。僕は間違ってはいけなかった。だから、母の言う通りにしないといけない」」
そう、間違ってはいけません。
苦しいですよね。
「小5まで夜尿や指しゃぶりが続き、学校では“普通のフリ”で通した。日常において自分の意見などないのに、中身があるフリをし、普通の人らしく振る舞おうとする。そうすればするほど周りとギクシャクした。」
私にも指吸の後があります。左手の親指がいびつになり、それは私の失敗ということに家族内ではなっていました。
いつ、とは言いませんが、ありえない時期におねしょしたこともあります。
ありえない時期ですから、内々に処理することもできる年齢なのですが笑
そのあとドナ・ウィリアムズさんの
自閉症だった私へ、を読み
発達障害や何らかの精神疾患において、自律神経が損なわれる、混乱することにより
思春期の「おねしょ」というのは
頭痛や蕁麻疹に限らず起こり得る症状なのだと知りました。
あるいは毒親でなくても、親はこのことに冷静に対処できるのか、疑問です。あまり広く知られてはいないことなのではないでしょうか。ただ、便秘とかもそうだと思うのですか、排泄に関わるトラブルって「家庭環境に原因があること」決して珍しくはないと思うのです。
他にも身につまされるセンテンスなど
閉塞した共依存関係
杉本さんのケースもまた、母親の過去に理由を探ることができる。彼女は、出産で命を落とした実母に代わり、杉本さんの祖父の後添えに育てられた。家庭は裕福だったようだが、その後妻は連れ子に、優しい言葉一つかけたことがなかったという。継母から全てを否定されて育ったのが、杉本さんの母親だった。
だからといって、杉本さんの母親が、プライドの高さからくるストレスや夫との不仲という“不遇感”を解消するために、一人の子にターゲットを絞り、全てを吐き散らす“ごみ箱”にしていいわけがない。DV夫が、妻をストレスの“ごみ箱”にしているのと全く同じ構図だ。
ゴミ箱というとちょっと感情的かな、という気もしますが、まあそんな感じですね。
毒親は自己肯定感が低いために、「子どもにとって絶対的な存在」であろうとします。
自分の情緒ではなく教育的に、自己正当化しますから、ここに毒親の子供には
「親に認めなければ無価値な自分」
が、できてしまうんですね。
自己肯定感の高低は程度の問題であるように、毒親も程度の問題ではあるのですが、まず、子どもがいなくても自己肯定感を維持できなくてはいけません。(※外で働いているほうが社会的人間としての価値を実感しやすいので、はからずも毒親は専業が多いです)
と、同時に毒親育ちも、他の誰に認められずとも、自分の命に「絶対的な価値」を認めなくてはなりません。
結局
自分以外の誰かの基準に従うと
他人の役に立っているか?ってところばかり見てしまいます。それを指標にするのは良いのですけど、じゃあ
「自分の役に立たない命は無価値なのか」って、他人の命に優劣を付けることと同じですから、
能力によらない自分の価値を認めることは、毒親育ちにとって最重要課題です。