体の中に耀る月 1-3
誰より、僕が傷だらけであることを、誰に知ってもらえば良いだろう。
睦(あつし)は、教師に指定されたページを正しく開いて、テキストを読んでいるふりをしていた。
「ので、あるからして‥‥、だから‥‥なるわけです。」
心に触れる教師と、心に触れない教師。
「今の話をよく覚えておいてください。次は、‥‥。」
子どもの気持ちを探る親と、気持ちに無関心な親。
彼は、頭の中でことばにして、自分の気持ちを考えているわけではない。
「良いですね。それでは滔、滔、滔、滔々。」
退屈だ、とか、やってらんねー、とか、そういうことを考えていた。
「滔々滔々滔々滔々」
他の皆と同じように。
それは昔の事だ。昔といっても、睦(アツシ)は中学二年生なので、たった数年前の事だ。数年前の出来事に「まだ」とか「もう」とか、修飾してみるには、睦は幼すぎた。
しかし、大人らしい事には、人一倍興味のある年齢ではある。
超能力がある、という気味の悪い噂が立った事に、彼は少なからず傷付いていた。彼自身には傷付いた自覚はなく、ただ「嫌な思い出」として忘れようとしていた。
自分に常ならざる力があることには、物心付く前から気付いていた。しかし、それを自慢にできたのは、ほんの小さな頃だけだった。結局それが、誇れるほど、便利でも強力でもなかったからだ。透視とか催眠のような力だが、とても限定的。
「とう、とう、とう、とう、とう、とう」
教師は喋り続けている。
目の前に並ぶ無数の文字は、それだけで、睦のやる気を削いだ。
彼は、別の教師の事を考えていた。なぜか、彼の嫌な思い出の事を知っていた、担任の生物教師の事だ。記憶の反芻の中、睦の目の前には、華奢で小柄な女教師がいる。
「君に頼みたいことがあるんだけど」
睦の頭に疑問符が浮かんだが、それを表情には出さないよう、努めた。
教師に、「知らない」ことを、知られないよう振る舞うことが、睦のこの頃の流行りだった。
「と、言うと?」
担任教師は、このところ暇を見付けては、順番に生徒を呼び出している。
その理由を、彼は当然知っていた。いや、学校中の人間が知っている。一年学期末試験に、睦のクラス内で集団カンニングの噂があった。
後になって、気の弱い生徒が、「SNSを介して試験問題が売られていた」と告白した。けっこうな騒ぎになったが、首謀者は分からないままだった。
結局、睦のクラスでの学期末試験は無効になった。再試験が行われる事になり、試験問題を買っていなかった生徒からは、ブーイングが起こった。しかし、生徒の言質や、わずかな証拠だけで、生徒30人全員の白黒をハッキリ付けるのは、無理がある。
万一の冤罪で、生徒とその保護者の恨みをどれだけ買うか知れない。全員の不満を、少しずつ買って、場を納めよう収めようというのが、教師陣の判断だった。
だから、生玉典子は警戒している。今度の中間考査でも、同じような事が起こらないよう、面談という名の「尋問」で、犯人探しと牽制を兼ねている。
だが、睦を前にして、生玉典子は「頼みたいことがある」と言った。
続けて、「君、不思議な事ができるらしいね」
睦は思わず目を伏せた。
しまった。びびってるように見えたかな。
生玉先生は、睦にとって、怖い女教諭だった。能面に似ていて、顔に凹凸は少なく扁平である。しかし、バランスの取れた端正な顔立ちで、切れ長の瞳の奥に、琥珀がある。
生玉典子は、怒鳴りはしないが、生徒への視線は、鋭くて冷たい。
訥々と生徒を諭しながら、
「別にどうでもいいんだけどね」
という本音が、胸中に淀んでいるようだ。
血生臭い、女の深淵を見るようで、睦にとって、生玉典子は近寄りがたい存在だ。
ただ、彼女を美人だと持て囃す同級生も多く、恐れを知られるのは、恥ずかしい。
「なんスか、それ」
斜に構えて、聞き返す。
「君には、見なくてもどこに何があるのかわかる。そういう力があるって、お友だちから聞いたんだけど」
睦の心臓が高鳴った。即座に、早口で否定する。
「そんな事できるわけないじゃないスか。先生、ドラマの見すぎっスよ」
その様を、冷めた目で眺めて、生玉典子は言った。恬淡として。
「あら、そう。睦君は、嘘を吐くのが下手ね。下手というか、ど下手くそね。いえ、もう、一片の才能も無いと言っても、過言ではないかもしれないわ。まさかと思っていたけど、心当たりがあるのね?」
突然の痛罵に、睦は唖然とした。
生玉典子は続ける。
「もしできるなら、その力で、カンニングな犯人探しを手伝ってほしいと思ったのよ。テスト中に、スマホとかタブレットとか、隠し持って怪しい動きをしてるコを」
「‥‥‥‥」
「良いのよ、気にしなくて。幸本(コウモト)君本人がカンニング犯じゃないことは分かっているわ。いつも通りだったし」
そう、いつも通りの中の下である。
しかし、睦の心に、むくむくと悔しさが沸き起こる。
睦は年相応に、素直よりも、有能な嘘つきに憧れていた。先生の物言いに、信用よりも、侮辱を感じた。歯噛みをしたあと、
「でも、俺は‥‥」といきり立った。
「でも、何?」
琥珀の瞳が光る。
しまった。睦は再び目を伏せる。
「いえ、なんでもないです‥‥」
「隠し事してるの?」
隠し事をしていた。先生の言うとおり、睦自身は、昨年末のカンニング騒動に関わっていない。しかし、首謀者を知っていた。
犯人は、睦の小学校からの悪友だった。下校途中、「睦にだけ」と、犯行を自白していた。
「教師ってチョロいよな」と嗤っていたクラスメートの俊之(としゆき)は、実はカンニングなんかしなくても、成績が良かった。
その、大人の世界を下に見る態度は、睦にとっての憧れだった。友人を売るなど、卑怯の極みだった。睦は憮然として、口をつぐんだ。
「そう、じゃあもう、行って良いわよ」
「あの、先生」
「なあに」
「‥‥誰から聞いたんスか」
「何を?」
「俺の噂」
生玉典子は、なぜか不敵に笑った。そして、彼女は脚を組み換えた。タイトスカートから伸びる、白く肉付きの良い足が動き、思わず目で追ってしまう。しかし、睦は、これにも慌てて目を逸らした。視線は宙を掻く。
ああ、だから嫌なんだ。睦は、顔が火照るのを感じた。生玉典子は、思春期の性的な好奇心を、冷ややかに見下している。
「先生もねぇ、実は、ちょっとした不思議な力があるの。」
「どういう意味スか」
「人の心が読めるのよ」
また、心臓がドクンと脈打つ。睦は顔を上げた。
「は」
そんな、まさか。と言うことは、今まで俺が考えていた事‥‥アレも、アレも、アレも、全部この人にはもろバレだったと言うのか‥‥?
滝のような汗が、睦の顔を覆った。
いや、落ち着け‥‥
「そ、それなら、そのテレパシーで…犯人が分かるはずじゃないですか。嫌だな、先生、からかわないでよ」
生玉典子は、リズムを取るように、膝を動かした。衣擦れの音が睦の耳をくすぐる。
「ふふ。そんなに楽な話でもないの。先生もね、心が分かる子と、分からない子が、いるのよ」
「お、俺のは、分かるんですか?!」
「そうねえ‥‥」
生玉典子は、睦の心の奥底まで覗きこもうという風に、ぐっと顔を近付けていた。
「本当に?」
「大体ね」
生玉典子の水晶体に、青白い睦自身の顔がある。
「じゃあカンニングも」
睦は、今度は椅子から飛び上がった。
「やっぱり、何か知ってるのねえ」
「だ、騙したのか。テレパシーが使えるなんて言って」
「誰もテレパシーが使えるなんて言ってないわ。睦君。今のは自白よ」
「え」
「言いなさいよ」
「‥‥いや」
生玉典子が、睦を睨み付けている。
睦は、黙る。不安や恐れを隠して‥‥そうだ、絶対に言わない。余計な事を言わないよう、今から俺は、デポン期に絶滅した節足動物の化石のように、黙る。
先生が、「もういいから、帰りなさい」と言うまで。
睦が頑なに黙すのを見て、生玉典子は、アッサリと「良いわ、帰りなさいよ」と言った。本当に、睦の心を読んでいるようだ。
「え、良いんスか」
呆けたように、つい生玉典子と目を合わせると、生玉典子は、蛇のような俊敏さで、睦の視線を捕らえて
「その代わり、もう一回聞くからね。必ず。」
その言い方に、何か鬼気迫る物を感じ、恐怖がぶり返した睦は、すぐ部屋を飛び出した。
「とう、とうとうとうとうとう」
古典教師の話は、意識しなくとも、耳をすり抜けていくのに。
冷静に考えれば、怯える必要はない。生玉典子の何が怖いのか、睦には分からなかった。
その容姿や、ことばの一つ一つを思い返して、恐怖を克服しようとする。しかし、逆にその神経過敏が、恐怖の根源という気もした。
「もう一回聞くからね」
生玉典子の言葉を思い返して、睦は、疑問符を付ける。どういう意味なんだろう‥‥
睦は俊之の後ろ姿を、盗み見た。
その日は、俊之の方から「一緒に帰ろうぜ」と誘ってきた。
下校途中、「今日、生玉先生に呼び出されてたけど、言ってねえよな?」と、訊いてくる。
単刀直入。きっと、睦の密告が気になっていて、下校に誘った。
「言うわけねーじゃん!俺を信用してないのかよ」
睦は否定する。
「良かった。いや、睦は、嘘吐けない奴だからさ」
なんの弁明か分からないその言葉。底意があるのか分からない。しかし、睦はムッとした。生玉典子にバカにされた記憶が新しい。
「でも、どうやって試験問題盗んだんだよ?誰にも言わないから教えろよ」
「えー、内緒だよ。内緒」
俊之は、肝要なところを言おうとしない。睦は、ますます見下されているように感じて、不満を抱いた。睦が俊之を慕い、憧れるのは、特別な能力なんてなくても、自分にできないことを要領よくこなせるからだ。周りの羨望も欲しいまま。
睦には透視能力がある。しかし、限定的。 透視と言っても、分かるのは立体のみ。複数のコップから、ボールが入っているものが分かっても、裏返されたトランプの文字を、読み取る事はできない。それが分かると気付いたのは、睦が物心付いたとき。それを小学校の時は、無垢な心でただ自慢にしていた。周りに、透視能力を披露しまくった。
初めはすごい・すごいと持て囃していた同級生の気持ちは、次第に厭き、さらに、妬みを生んだ孕んだ。
ある日、担任教師に「超能力がある人はテストで良い点が取れるから、ズルい」と、見当違いの告げ口をしたものが現れた。
睦は、「話し合い」という名の裁判に、被告人として吊し上げられた。
教師はまず、超能力の存在自体を疑っていた。そんなものがあるわけない。その上で、カンニングの噂が立ったということは、睦が、何か、疑われるような行為をしたのかも知れない、と考えていた。 いたたまれなくなった彼は、カンニングなどしたことがないのに、「もうしません」と、嘘の自白をせざるを得なくなった。
思い返すと、頭が熱くなった。理不尽な扱いに対して、怒りか恥ずかしさか、判じ得ないような気持ち。
クラスメートは睦を俾猊し、距離を置いた。睦がカンニングなどしていないと、知っている人間でさえ、睦の側にいようとしなくなった。俊之を除いて。
俊之は昔、大事なことを教えてくれた。孤立した睦を励ましてくれた、友人だ。
俊之は、落ち込む睦に、クラスメートに睦を卑しむ権利はない、と言った。
そもそもカンニングの何が悪いというのか?
「何点か稼いで、それで相対的に成績を落とすのは、それほど賢くない連中ばっかりだ。カンニングを許さないのは、バカにされたと感じた、一部の生徒と教師だけ。けど、騙されたり出し抜かれた奴が怒るのには、「『自分が騙される筈がない」』、という慢心があったからだ」
「いわば、責任転嫁なんだ。
あとは、クラスメートは、良いことにも悪いことにも、ただ流されているだけの、主体性のない連中ばっかりだ‥‥」
そんな事を睦に言った。元気を出せ。落ち込むのはバカだ。そんな風に、睦を励まし続けた。俊之の口振りは、小学生と思えないほど、老長けていた。カンニングを悪い事だとも思っていないようだ。
俊之の言っていることはよく分からなかったが、周囲の目を気にせずに、一緒にいてくれた俊之に、睦は気を許した。そして、同い年ながら一回りも年上のようで、大人を食った態度に憧れを抱いている。
しかし、だからこそ、カンニング事件の主犯であるとカミングアウトし、そのくせ肝心なところは隠す俊之は、「俺はお前よりも上手くやっている」という誇示をしているようにも見えた。そして、睦を友人としてではなく、体のいい子分として扱っている。そういう疑念。
睦にとって、俊之は付き合いの長い友だちなのに。
試験日が近付いている。
生玉典子の牽制のおかげか、俊之の気紛れか、今度の中間では、試験問題が盗み出される事はなかった。前回は、SNSに架空のアカウントが作られ、そいつがメッセンジャーを通じて、生徒に試験問題を横流ししていた。ただし、有料。しかし、高額ではない。
生徒の誰もが、お小遣いで買える程度の額だった。SNSを頻繁にチェックする生徒は、詐欺を疑いながら、ものの試しに、その「参考問題」を購入した。それが、試験問題そのものだとは思わなかった。試験後、くだんの架空のアカウントは削除されていて、誰がアカウント保持者かは、分からなかった。
友人申請は、謎のアカウントから、全クラスメイトに一斉送信されていた。プロフィール画像は、可愛い女子がトイプードルと映っている写真。経歴は、汐ノ宮中学在学。睦たちの通う学校だ。
生徒の中に、写真を保存していた者がいて、教師は、それを「押収」し、学内生徒と照らし合わせた。しかし、それは、校内の誰でもなかった。
頭の固い教師は、見ず知らずの人間からの友人申請を受けたのか、と、生徒の何人かに怒鳴り散らした。素直で気の弱い生徒は、涙ぐんだ。
「友人のナニガシとは既に友達だったし、他にも同世代の友人がたくさんいた。フォロワーも100人以上いた。学校にいるなら、SNSを通じて友達にもなれるし、アカウントが偽者なんて思わなかった」と。
教師は閉口した。
睦は、生徒の言い分に気持ちを寄せた。
生玉典子は、そのとき、ただ成り行きを見守っていた。
俊之は陰で、教師を嘲笑った。
「自分の無能を棚にあげて、生徒に当たるなんて、最低だよな」
教師は、今回の中間試験にあたり、生徒が不審なアカウントと友人関係を築いていないか、聞き込みをしているらしい。睦から見てもそれは中途半端な対応だった。しかし、網目状に広がるオンラインネットワークをつぶさに調べるのは、簡単じゃない。
保護者に警戒を促しても、協力の程度はまちまちだった。だから、教師陣は、犯人特定を置いて、テスト問題が流出しないよう、セキュリティを強化することに努めている。
取り分け、生玉典子は慎重で、今回は手書きで試験問題を作成し、試験日前日に印刷することにしたようだ。それを、睦は後で本人から聞いた。アナログ。しかしそれだけ不正は難しい。
中間試験の前日、それに挑戦するかのように、俊之は「今度は俺だけ満点取ってやろうかな」と睦に言った。睦は驚いた。
「またカンニングするつもりなのか?」
「だって、慌てたりキレてる大人って、面白えじゃん。おちょくってやりたくなる。」
俊之は言った。面白い?面白いかも知れないが
「今度こそバレたら、ヤバイぜ。停学になるかも」
「バレなきゃ良いんだろ、平気だよ」
傲然と言い放たれて、睦はもう二の句が告げない。
「睦よ。バレること心配してたら、バレるんだぜ?」
「そういうもの?」
「そう。堂々としてる方が良いんだよ」
睦の胸中に、いろんなものが渦巻いていた。自分本意を、全て肯定できてしまう俊之への憧れ。しかし、それだけではない、薄暗い感情が漂う。口にすれば、それはただの嫉妬の発露。また、親や教師の言葉を借りた、陳腐な説教になると感じた。
だから何も言えなかった。
嘘を上手に吐けるのが、そんなに偉いかよ。
悔しい睦は、ひとつ、俊之の秘密していることを探ることにした。もちろん、生玉典子に漏らすつもりはない。それは卑怯というものだ。
そうだ、俊之の「犯行トリック」を暴いてやる。それを俊之に言って鼻をあかす。
睦は、素直なだけの愚鈍な人間じゃないということを、俊之に知らしめる。
睦は、しばらく「それ」を使っていなかったものの、それは、歩くとか走るとかと同じく、感覚で分かることだった。睦は、本来「何か」に覆われている中身にまで、視界を広げることができるのである。
「それ」はただ、少し口を開けて、神経を集中させる。簡単な事だ。
睦に分かる事は、限られている。「それ」で分かるのは、ぼんやりとした物のシルエットだけで、ほとんど形が一緒なものを区別することはできない。たとえば掌に隠されたものが、ビー玉か飴かとか、そんな事まで分からないし、箱に隠されたものが、ノートか教科書か分からない。柔らかいか硬いか、大体の感触ぐらいなら、人が見ただけで想像付くように、少しは判別できたが、ぐちゃぐちゃに折り畳まれたシャツは、ぐちゃぐちゃに折り畳まれた何かであって、ズボンかシャツか、大きな風呂敷か、分からない。とても限定的な能力。
テスト一日目。
睦は、斜め前の席の、俊之を見た。前屈みで頬杖をついている俊之は、気だるげに、前の席の女子と話をしている。俊之はモテた。
「はい、教科書を鞄の中にしまって。机には、筆記具以外のものを置かないこと」
教師の一声で、クラスメートが、ごそごそと動いた。俊之も居ずまいを正したが、それでも少し前屈みだった。
一科目目は、数学だ。
「時間です。はじめてください。」
教師の一声に、また、クラスメートがごそごそ蠢く。単なる定期テストたが、睦は感じる。異様な緊張感。教師は、テストの時、生徒に呪いをかけている。数字で測る者と測られる者。もちろん測る者が上位者だ。測られる者の中に優劣の層ができても、生徒と教師という立場は別格だ。少なくとも、学校を卒業するまでは。この立場の呪いを自らの意思で破ろうとする俊之は、やっぱり凄い奴だと思う。
睦もまた、少し緊張しながら、不自然でない程度に、口を開けた。口を開けなければ、何故か「それ」は使えない。
浅く吐く。神経を集中させる。上半身で、俊之の方から返ってきた、感覚を拾う。空っぽの机。鞄に、ノートや教科書、おそらくスマホもある。睦は首を傾げた。
睦は、俊之がカンニング犯なら、すぐに何か不正に値するようなものが見つかると楽観視していた。たとえば、机にスマホやタブレットを入れているとか。もう一度、試す。
空っぽの机。服の中にも、制服以外の、別の何かは感じられない。
睦は、直に、俊之を見た。俊之は、淀みなく手を動かしている。
睦は、文字通り、肩透かしを食った。
「そこ、ごそごそしない」
「あ、はい」
睦は、自分の解答用紙に、目を向けた。
二科目めの、現代国語。
一科目めで、出遅れた。睦は、俊之の事を気にせず、テストに集中した。国語は苦手だ。
「あなたは呼ぶ声で わたしは答える声
あなたは願望で わたしは夢の実現
あなたは夜で わたしは昼」
何が言いたいか分からない詩の後、問いに、「作者の意図を答えよ」とある。
はー・・・。睦は頭を抱えた。
結局、俊之とテストの、双方に気を配ろうとして、どちらも注意力散漫だった上に、釣果もない。睦は落ち込んだ。
俊之の方を見る。俊之は勉強ができる。カンニングなんてしなくても、高得点を取れる。ひょっとして、ただ、自分をからかうつもりで、「カンニング犯だ」と騙っただけかもしれない。睦は考えた。
聞いてみようか。「嘘だろ?」と。それで、図星なら動揺するだろうか。それとも、笑い飛ばすか。どうしてそう思ったんだ、と。確証があればいいのに。けど、どの返答も「嘘」が混じっているとしたら、結局俊之がなんと答えようと、その真偽を見極めることができないだろう。
睦がまごついているうちに、俊之が席を立った矢先だった。歩いていた南戸(みなみど)とぶつかって、俊之は、椅子の上に尻餅を付いた。南戸もよろけて、俊之の隣の席にぶつかり、そしてこちらは床に尻餅を付いた。俊之が舌打ちした。
睦は、俊之のキレやすいところが、好きじゃない。
「おい、横幅広いくせに、ちんたら歩いてんなよ」
南戸は、何も言わなかった。俯いたまま。俊之と仲が良い前の席の女子が、横槍を入れた。
「南戸。ぶつかったんだから俊之君に謝りなよ」
南戸が悪いんだろうか。睦は、不穏な空気が漂うのを肌で感じ、俊之に声をかけるタイミングを失った。睦は黙って、ただ事の成り行きを見つめていた。
「‥‥なさい」
地面に向かって、南戸が何か呟くのが、かすかに聞こえた気がした。南戸。情けない奴。自分は悪くないと思うなら、そう言えば良いのに。
俊之は、もう一度舌打ちして、教室を出ていった。その後ろ姿を、床に膝を付けたまま見守った南戸は、のろのろと立ち上がろうとした。
それを、くだんの女子が、再び突き飛ばした。
ガシャッ。ズリッという音がして、南戸は、顔から床に伏した。今度は、すぐに後ろを振り返り、女子を睨んだ。しかし何も言わない。
女子は悪びれず、
「ごめん。ぶつかっちゃった」と言った。
わざとだ。白々しい。南戸が何も言わないことに、業を煮やした睦は、
「おい、今のわざとだろ。南戸に謝れ」と女子に言った。
女子は、
「は?アンタ、関係ないし」
と言った。
「なんでも良いから謝れ」
「謝ったじゃん!」
「ちゃんと謝れ」
「正義漢ぶるなよ、吐き気がする」
女はすぐ口答えする。二言めに「気持ち悪い」と言えば、勝った気になる。
「じゃあ吐けよ」
女子は、睦の剣幕に怯んだ。睦を睨み付けたが、それ以上何も言わずに、教室を出ていった。
睦は、南戸に手を差しのべようか、迷った。南戸に同情したというより、俊之や女子生徒にやられっぱなしの南戸を見ていると、むかっ腹が立っただけだ。南戸は、上背がないのに、小肥りでダサい。友達になりたいとは思っていなかった。
睦が俊巡している間に、南戸は、睦の助け船にお礼の一言もなく、足早に去っていった。
なんだよ、どいつもこいつも。舌打ちしたくなったが、堪えた。
翌日、テスト二日め。
一日目に、出鼻を挫かれたために、なんとなくやる気が出なかった。一時間めは、生物の試験だ。生玉典子が教室に入ってくるのを見て、睦は余計にげんなりした。生玉典子は、均整の取れた体の線がよく分かる、タイトなワンピースを着ていた。生徒に一瞥もくれず、テスト用紙を教卓に放り、言う。
「手を膝に置いて、座りなさい」
凄烈な一言。
往生際悪く、教科書を開き続ける生徒を、ひとりひとり睨んでいく。やがて訪れる、衣擦れさえない静寂。異様。まるで黙祷。
睦は思わず笑いそうになった。けど、笑うと絶対に生玉典子から、罵声が飛んでくる気がして必死に堪えた。
テストの際の緒注意を、滔々と陳べ始めた。生徒に、カンニング事件を強く想起させるような注意はない。
「では、始めてください。」
睦は、生玉典子を見て、そして、俊之を見た。
口を開いて、「感じて」みる。
俊之におかしなところはない。 生玉典子が、今後どれだけ睦を尋問するつもりでも、睦は、「分からない」と答える他ない。それはホッとする反面、癪に障る。試験に集中できない。睦は、ソワソワとペンを回しながら、もう一度、俊之を「感じて」みた。
それが、違和感の原因だった。俊之の耳に、何か。金属?プラスチック?イヤホンのようなもの。補聴器のような小さい何かで、ワイヤレス。睦は思わず、俊之を見た。もちろん肉眼では、目を凝らしても俊之の後ろ姿、わずかに耳朶が見えるだけだ。
睦はもう一度神経を集中して、「感じて」見た。次の違和感は、教卓だった。教室の中にはたくさん物がある。教科書、ノート、筆記具、腕時計、それが生徒の数。そして、生徒自身も。
睦は、今度は神経の焦点を、教卓にあてて、「感じて」みた。固い長方形の何か。たぶん、タブレット。睦は、それがカンニングの相方であることを直感した。生玉典子の所持品ではない。なぜなら睦は、教卓の側面を「感じて」見ているのにも関わらず、その怪しいタブレットは、睦に液晶面を向けている。生玉典子が無造作に自分のタブレットを入れたのなら、それは、タブレットを上方から見たときの、薄い側面が見えるだけのはずだった。誰かが意図的に、教卓の奥に貼り付けている。おそらく、見付かりにくいように、誰かが仕込んだもの。
それから先の出来事は、矢継ぎ早に起こった。おもむろに生玉典子が立ち上がり、肉付きの良い脚を小幅に開いて、体を傾げる。睦が気にしていた教卓の中に、腕を差し込み、まさぐり始めた。ぺりっと渇いた音がした。その時、俊之は何食わぬ顔でイヤホンを外し、鞄の中に滑り込ませた。主犯のタブレットが見付かっても、その持ち主が誰か分からなければ、にわかに俊之へ疑いがかかることはない。
しかし、少なくとも数人は、俊之の怪しい行動を見ているのだ。生玉典子の上半身は、教卓の陰に隠れていても、生徒の視点は皆「俊之と同じ側」にあるのだから。俊之は、生徒の誰かが密告するとは、考えないのだろうか。…いや、俊之は、教師にさえ見られず確たる証拠が無ければ、堂々と否定するのじゃないか。
「カンニングの何が悪い」
「怒っているのは、バカにされた教師だけだ」
俊之の言葉を思い出した。
生玉典子は、しなやかに上半身を起こした。無造作に、教卓の上へ、鈍色のタブレットを放る。沈黙。今までテストに集中していた生徒は、手を止めて、生玉典子とタブレットに、視線を向けている。机と机の間を縫い生玉典子は真っ直ぐに歩いた。俊之の方へ。
「立ちなさい」
俊之は、生玉典子を見上げ、困惑しながら、教室を見渡した。いかにも、「なぜ?」という風な無垢の表情。どうしてこんな顔ができるのか、睦は不思議に思った。
「立ちなさい、トシユキ君」
二度めの圧力。
「なぜですか?」
反駁しながらも、俊之は立ち上がった。
「君は職員室へ。先生と一緒に来なさい。テストは中止よ。けど、他の生徒は勝手に退出しないように。木村先生を呼んでくるから、それまで静かに待っていること」
「なぜですか?僕は何も」
俊之が言い終わらないうちに、生玉典子は、机の脇に提がっている、俊之の鞄をまさぐった。
「これは?」
それは、ベージュで小さな雪だるまのような形をした何かだった。さっきまで、俊之の耳の中に入っていたもの。
「イヤホンです。他にも持ってきてる奴は、いますよ」
「まるで、今まで付けていたみたいに温かい」
「先生が持っているからです」
俊之は、傲然と言い放った。典子は溜め息を吐いて、イヤホンを俊之の机に転がした。タブレットと同じように。
典子に俊之を追い込む決定打は無いように思えた。しかし、それを悔しがる様子はない。自身の確信だけで十分で、俊之の態度などどうでも良い。ただ、嘘を吐き続ける俊之と、それを黙殺する生徒を、睥睨している。お前らバカじゃないの?
俊之は、なぜ気圧されず、立っていられるんだろう。いや、そもそも生玉典子への恐怖は、睦しか感じていないものなのかもしれない。睦が特殊能力によって感じ取ったものを、そのまま盗み見たようなタイミングで、生玉典子は俊之を吊し上げた。この勘の良さを、恐ろしいと思えるのも、睦だけなのだ。
睦は努めて視線を下に下げていた。そっと視線を上げると、なぜか生玉典子と目が合った。冷利で、琥珀色の瞳を、睦に向けていた。次の生玉典子のことばは、睦が予想だにしていないことだった。
「実はね、つい先日、カンニング犯は君だって言ってきた子がいたのよ」
生玉典子は言った。睦は、心臓が皮膚の裏を叩くのを聞いた。何を言うつもりだろう。俺はチクってないぞ。・・・チクってないよな?
「誰ですか、それは」
俊之は、聞き返した。
睦は、再び顔を上げた。今度も、生玉典子と目が合った。なんで俺を見るんだよ。
「言ったら可哀想よ」
「可哀想なのは俺です。証拠もないのに、いい加減な情報でカンニング犯にされかけてるんだから」
間。しばらく、生玉典子は口をつぐんでいた。何かを考えているように見えた。口元に、薄く笑みを浮かべているように感じる。
「そうね、一理あるわね」
何だって。睦は混乱した。
もう一度、生玉典子が口を開きかけたとき、睦は勢いよく立ち上がった。
「おい!」
反動で、椅子が転けた。空気が凍りついた。今度は、生玉典子だけではない。教室中の視線が、睦に注がれていた。無論、俊之も。
ただし、彼だけには、「驚き」の表情はない。怒り。
目尻を吊り上げて、睦を睨み付けていた。
生物のテストは無効になったが、他の科目は予定通り行われた。俊之は、程なくして教室に戻ってきた。結局、俊之にかかった嫌疑はどうなったか、聞いている生徒がいた。俊之は答えなかった。睦は聞けなかった。
頭の中は、大混乱だ。反省や、自問自答や、典子への怒りと、俊之への爽快なような罪悪感のような複雑な気持ち。俊之に謝るべきか、生玉典子に怒るべきか、それとも…開き直るべきか。混乱のままに、テストは終わった。
俊之は、睦に目もくれず帰ってしまった。睦のやり場のない気持ちは、結局生玉典子に向かうことになった。
職員室で、典子は生物室にいると教えてもらった。走る。
「先生!どうしてくれるんですか」
教室のドアを開けて、叫んだ。生玉典子は、なぜか着替えの最中だった。テストの時のタイトなワンピースではなく、ベージュのボウタイブラウス。マーメイドラインの膝丈スカートを履こうとしているところ。生玉典子が脱いだものは、人体模型の腕に提げられていた。睦は硬直した。しかし、生玉典子は、取り乱す素振りを見せなかった。
「何?」
不機嫌な様子で、チャックを上げる。模型からワンピースを取り、肩のところにハンガーを通し、傍らの紙袋に入れた。流れるような所作だった。しかし、片方の耳にはピアスがない。菫色の小さな玉が付いたピアス。生玉典子は、何気なく耳に手をやり、それに気付いた。紙袋にまさぐり足元を見渡す。
人形の従者は物を言えない。ただ、困ったようにその場に立ち尽くすのみ。
呆然自失の状態から回復した睦は、叫んだ。
「酷いじゃないですか!」
「何が?」
生玉典子は素っ気ない。
「何がって、まるで、俺が、その」
言いたいことがまとまらない。しどろもどろになっていると、典子は睦を睨み付けた。そして舌打ち。
「な、な」
教師の悪態に呆然とする睦。
「イラつくわねえ」
踵が低いわりに、よく響くパンプスが床を打つ。生玉典子の手が、睦の顔に向かって来た。思わず目を瞑る。バシっと音がしたが、痛みはない。おそるおそる目を開けると、典子は、睦の後方の扉を閉めただけだった。睦は、開け放した戸を閉めていなかった。しかし、琥珀の眼光は、今白炎を湛えて、睦を見下ろしていた。
「どうにかならないのかしら。アンタのその鈍感さは」
しかし、典子が続けるのは、粗野な行動で思いがけず着替えを覗いてしまった事への、苦情ではない。見付からないピアスへの苛立ちでもない。
「言ったはずよ。アンタのは自白だって」
彼女から目を逸らそうと、睦の瞳は虚空を掻く。今日一日で、何度典子の視線から逃れようとしただろうか。片方の耳にだけ通ったピアスが、わずかに揺れている。
「でも、俺は‥‥」
再び舌打ち。睦は、黙る。
「私が試験を中止してからは、確かに、みんなトシユキを見てたわ。けど、アンタは違うわね。試験が始まったというのに、一人トシユキを見たり、教卓を見たり。目立ってたわよ」
「お、俺の視線で分かったって事ですか」
「そういう事をやりそうな生徒に、当たりも付けてたけど。まあそういう事ね」
「せ、先生。ちゃんと、俊之に、言ってよ!俺がチクったんじゃないって」
抵抗した。
「何故?」
「なぜって、それは、だって」
睦は、俊之を売ったりしていない。それは、自分で俊之に言っても説得力がないからだ。
「アンタのは自滅よ。自白に自滅。なぜ私が二人の仲を執りなさなきゃならないの?自分で解決しなさい」
けんもほろろな典子の態度に、睦の中で反抗心が大きくなった。恐怖を抑えて、言い返す。
「自滅って、元はと言えば、先生が煽るような事言うから・・・・」
「いい加減にしなさい」
生玉典子は激怒していた。身をすくめる。しかし、同時に疑問が芽生えた。なぜ、典子は睦に怒るんだろうか。カンニング犯の俊之ではなく。
睦は、生玉典子の視線を真正面から捉えた。睦にとって、それはなかなか、勇気のいることだった。そして、睦は思わず「感じて」しまった。使うつもりではなかった。
生玉典子の呼吸。静かに波打つ鼓動。この人はいつも、何かに怒りを湛えているが、静かだ。睦の自分でも気づかない性格や特性。それが、典子が感じる怒りを増長するようだ。それが怖い。ボウタイのブラウス。普段の生玉典子には見られない、愛らしい服。その下にあるワイヤー。ワイヤー?ああ、そうか。下着だ。下着に引っ掛かる、小さな硬い玉。
睦は、顔に血が上って意識が遠退くのを感じた。遠くで、何かを言っている自分を感じた。
「引っ掛かってます‥‥その、下着に。」
典子は一瞬、睦が何を言っているか分からず、眉を顰めた。そして、少しだけ目を見開き、細くて長い指を、ボウタイの真ん中に差し込み、菫色の玉をつまみ出した。
「さっきので確信したわ。アンタには、普通人間は持っていない、特殊な感覚器官がある」
睦は返事ができない。
「きっとそれは汎用性があって悪用もできる。人の好奇心をいたずらにくすぐる。なのになんなの?アンタのその鈍さは。ボーッとしてると思えば、トシユキごときや私に鎌をかけられた程度で狼狽える」
「‥‥」
「カンニングがなに。つまんない友情にヒビがいったからって、喚くんじゃないわよ。アンタ、いつか、もっと大きなトラブルに巻き込まれるわよ。解剖されてから嘆いても遅いってことを自覚しなさい」
言いたいことを言うと、典子は、生物室から出て行った。取り残された睦は、たった半日の事だが、精神が疲弊し、呆然としていた。アルコールの匂い。瓶詰めにされた節足動物、そして、爬虫類。生き物は睦だけとなった空間で、そこはなぜか脈動が満ちている。
にわかに意識をハッキリさせた睦は、典子の跡を追った。言いたいことも、聞きたいことも、相変わらずまとまっていなかった。しかし、その場に取り残され、所在無げに佇むよりは、典子に罵倒されようが「何か」を叫んで憂さを晴らす。睦が、咄嗟に選んだのは後者だった。
「先生、待ってよ」
典子の足は速かった。部屋を出たのは、数秒の差だと言うのに、典子はもう廊下の端にいて睦の視界から消えようとしていた。
「ちょっと待って」
聞こえないのか、聞こえないフリをしているのか、典子が再び振り向いたのは、校門を出てすぐのところだった。
上半身だけを捻り、睦に顔を向けた。露骨に嫌な顔をしながら。
「まだ何か?」
「あの」
呼び止めておいて尚、睦は俊巡した。いちばん気掛かりなのは、本当に、典子が睦の言動だけで気付いたのかということだ。睦が、典子のことばを借りると「特殊な感覚器官」を持っていることに。しかし、この期に及んで、睦は典子にそれを認めることを躊躇っていた。睦は、質問の主旨を少しずらす事にした。
「その、先生。聞きたいことが」
「何?」
「俺は先生から見たら、そんなに分かり易いの?隠し事もできないほど。どうやったら、うまく秘密にできる?」
典子は、素っ気ない。
「さあ。恋愛でもしたら」
さて、これを至言とみるか迷言とみるか、意見が分かれる事だろう。睦については、典子のことばが理解できず、ただ呆けていた。それを気にせず典子は再び歩を進めようとする。
「ちょ、ちょっと先生」
「何?」
今にも舌打ちしそうな表情である。
「そのさ。先生が俊之には怒らなくて、俺にイライラするのって、つまりそういうことなんでしょ?あんまり嘘が上手じゃないから。だから、もっと丁寧に教えてよ」
そうそう、俊之に馬鹿にされるのも、睦が嘘を吐けないからだ。どうにか見返してやりたい。
しかし、典子は目を丸くした。それは、睦への軽蔑ではなく、純然とした驚きに見えた。
「呆れた。そんな事考えてたの」
「なんだよ、そんな事って」
典子が睦を軽蔑するのも、同じ理由のはずだ。
生玉典子は、考えていた。睦には、典子はいつでも生徒との会話を忌避しているようにみえた。生徒とのコミュニケーションが感染性のウイルスであるかのように。自分が汚染されないよう、遠目から睨み付けているだけ。そんな雰囲気が、睦は苦手だった。しかし、典子は、睦に噛んで含めるようにことばを紡いだ。それに睦は驚いた。それは侮蔑ではない。説教らしい説教だった。
「嘘と秘密は全然違うわよ」
「え、どういうこと?」
「嘘は序列そのものよ。秘密を守るのに、確かに嘘は便利よ。でも、嘘を吐く人間は、騙される人間を対等とは思わないし、騙されない人間は、嘘を吐く人間を対等とは思わないわ。なんの生産性もないライアーゲームに、私は真剣になれないの。トシユキが嘘吐きだから、私がアンタよりトシユキを評価しているなんてのは、誤解も甚だしい事よ」
「え、よく分かんないんだけど」
辛うじて睦に理解できるのは、
「俊之をスゴいとは思わないってこと?」ということだ。
「トシユキは、アンタとはまた別の自滅型でしょうね。私は、自分を守る事に頭を使わない人間が嫌いなの。身を粉にしてトシユキを更生させなきゃいけない義理もないわ」
「‥‥」
やっぱりよく分からない。しかし、義理くらいあっても良いじゃないか。生徒と先生なんだから。と口答えしたら、またキレられそうなので、止めておく。
「聞きたいことは、それで全部?」
「いや。じゃあ、秘密の上手な隠し方教えてよ」
「ああ?」
睨まれる。怖い。まるでチンピラだ。
「知らないわよ。なんで私が?」
「せ、先生だって、一応教師だろ?!俺だって困ってるんだ。空が飛べるわけでも、ビームが出せるわけでもない。触れば傷が治る便利な手を持ってる訳じゃない。せいぜい、隠れたものの形がわかる程度で、特殊能力とか言われて尊敬されたかと思えば、冷たい目で見られたり疑われたりするんだぜ!」
そして、顔を蒼白にして、睦は黙った。言いたいことをやっとことばにした。睦を典子が冷たくあしらうことはなかった。相変わらず冷たい物言いではあったが。
「まずひとつ言っておくけど」
「は、はい」
「物を頼むなら、それなりの態度が伴っていないとダメ。私にはちゃんとしたことばを使って。良い?」
「りょ、了解ス」
「ふざけてんの?次『で』を省いたら、卒業まで、いびり続けるわよ」
「は、はい」
「じゃあ、行くわよ」
「え、はい‥‥。とりあえず、先生さようなら」
「さよなら、じゃないわよ。アンタも行くのよ」
「え、どこ行くんすか」
「今から行くところへ行くのよ。上手に秘密にするなんて一朝一夕でできることじゃないの」
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