【小説】昭和に次男として産まれた私
前書き
母は九州大牟田家に繋がる血筋、父は学習院大学を卒業し、上場企業の社長まで上り詰めたエリート。父方の祖父は生前警視総監でしたが、還暦を迎えず早逝しました。祖父が売り込んだのか編集者からお声がかかったのか知りませんが、警察のドキュメンタリー本を一冊出版しています。署と署の仲が悪く、組織としての統制が取れず、引退までに暴力団壊滅には至らなかったというエピソード。
仰々しく書き出してみたものの、私は家族が嫌いです。大牟田家がどれほどのものだったかよく知りません。それに、一世代遡るだけで、取るに足らぬ血筋への優越、身内の間に格差が存在し、男尊女卑社会が見てとれます。旦那の給料で女の価値と命運は決まる。
かといって徹底した家族フォビアでもなく、家族の中には気兼ねない友のような関係を築くこともあります。
親以外の家族を繋ぐ感情は、シンパシーです。娘を導くことより、自己演出への関心が強すぎる父。若さを失ってくると劣等感に苛まれやすくなり、気紛れに娘を罵倒しながらも、自画自賛によって精神を保ってきた母。
私が人並み以上に敏く器用になら、ジェネレーションギャップがある彼らとも上手く付き合っていけたような気がします。
ほんの少し前、十年にも満たないですが、もうずいぶん昔に感じる出来事です。生き物として成熟しているとて、たった数十年しか生きていない、それが母数の十年なのだから、長く感じるのは当然かも知れません。私が無事成人し、一人の男子を出産した産褥期の頃でした。母は酒に酔っていて、乳児の息子を落っことしました。翌日、母は覚えていないと言っていました。そのとき、幼少期から刷り込まれ堅固だったはずの母親像への尊敬の念や恩を、強く意識しなければ、ほとんど感じなくなってしまったのです。
「感じなくなった」とは言い上、私の描くストーリーには、「母」がいて、それに苦しめられる「娘」が登場します。母を記憶から捨てたい、などと強く思うほどに、自己憐憫に囚われ忘れられないような気がするので、今は、私の中にいる「母」と「私」を他人事のように眺めるだけに留めています。けれど、そうしているうちに、今度は読者としての私が、そのキャラクター造形に厭きてきました。他人の気持ちを我が身をもって知る。なんということでしょう。
私の家族。醜悪な人たちよ。私が家族に美談を求める夢見がちな少女で無かったら、少なくとも少女で無くなった今なら、彼らのごく個人的な話、伝記的な話を、楽しんで聞くことができただろう。父方の祖母は存命ながら、昔から見栄っ張りだったのに加え、今は認知症が進み話ができない。父は、母と離婚した後、北新地のママに自慢する話のネタ程度にしか、娘らへの関心が無い。母とは事実上の絶縁をしている。
そうであっても死別ではないのだから、いくらでも話をする機会くらい作ろうと思えば作れるはずなのに、私自身もまた、自分のほんの身の回りのことにしか目がゆかず忙しさにかまけて、家族であるはずの彼らを敬遠しているのです。
自分のルーツである民族史を蝋燭にたとえると、私は手前で火をつけ燃え尽きるのを、ただぼんやりと眺めているだけに過ぎないのです。
では義理の家族はどうでしょうか。嫁入り当初は気付きませんでした。今もあまり思うところ・感じるところは無いのですが、義姉、つまり旦那の姉に言わせると、義両親もまた毒親なのだそうです。他所の家の確執に興味を持ち、聞き出そうとするのは、品位の無いことだと承知はしているものの、一歩自分の家族から離れてみると、他所の家の歴史、特に確執部分はなんとも面白い。成さぬ仲である方が、感情を廃して見聞することができるようです。
夫は十二歳まで金沢で育ち、それから関西に引っ越しました。義両親の故郷は富山県で、夫の話によると、語尾が上がるのは北陸訛りだそうです。旦那は舌が滑らかになると、相手が飽いても長話になるところが玉に瑕ですが、特に故郷・富山の話と銀行勤めだった頃の話が、面白い。
義母は、今では惚けてきたと自嘲はするものの、聡明で胆力があるように感じています。けれど、息子の発達障害の事を伝えたところ、恬淡と受け止めたように見えたのが、ショックを受けて一人泣いていたと、後で義姉から聞きました。義母にとって、夫は永遠の子供で、義姉だけに弱味や本音を見せることができるのです。
苦労することは不幸なことでは無いはずが、やはり母とは、息子や子々孫々に、傍目からも分かりやすく栄華を極め、それを見て安心したいものなのか。複雑な心中でした。
旦那の立場で書く理由は、単純に面白そうだというのが、虚飾の無いところ。厚顔無恥を承知ですが、もうひとつ、前者に比べれば、やや高邁な理念があります。
各々健康で世の中が平和であれば、夫はこの先、十年・二十年を一緒に過ごす人。小説に自分、もしくは自分を投影させたキャラクターを登場させると、読者の心を掴むためなどと言い訳を使い美しく見えるよう脚色したくなるものですが、この小説は、旦那に収斂し、彼にフォーカスするよう描きたいので、「私は息子の子育てに関与しない」そういう設定します。
父である・男性である、という立場を憑依させ、視界を借り、物を考えてみたい。
どれだけ上手くいくのか分かりませんが、息子を想う親同士、心を通わ人なので、未来のための合理的な試みだと思うのです。
妻の先祖たち
「昔ちょっと読んだけど、あんまり面白くなくて止めた。」
嫁は、自身の祖父を悪し様に言った。彼の書いた本は、つまらないのだと。彼女の祖父が出版した本のことだ。それに対して、私の祖父が書き子孫に遺した本は、自費出版の自分史だ。庄右衛門を代々襲名したという見出しの、文政まで遡る家系図は見物だが、元警視総監であるという嫁の祖父と比べると、ネームバリューに劣る。
東京大学を卒業し、警視総監まで上り詰めた輝かしい経歴。孫である嫁には誇れなくとも貶める必要は無いのでは、と思った。どうやら良い家庭人では無かったらしい。
年号で日本の歴史に区切り目を入れたところで、人の歴史は連綿と続く。どこかで絶ちきれるものではない。日本史の暗黒部たる太平洋戦争、百年経とうとも戦前・戦後と言われ続けるであろう事象と事象の境目ですら、死者と生者ほどの明確な差はない。
私の父
1921年に産まれた祖父の自叙伝には、青年期に富山の数ヶ村で、陸軍歩兵の訓練を受けたことが記録されている。陸軍軍人に準じた正服正帽姿で、銃は陸軍の払下げ品、三八式歩兵銃。背嚢にゲートル。富山歩兵三十五部隊の寺町射撃場では、五発中二発的に命中させた、と、誇らしげだ。
修了式では、皆で軍国歌「海行かば」を斉唱した。
海うみ行ゆかば 水み漬づく屍かばね
山やま行ゆかば 草くさ生むす屍かばね
大おほ君きみの 辺へにこそ死しなめ
かへりみはせじ
大君を思って死ね、と、そういう意味の歌だ。八紘一宇の精神が一文字一文字に至るまで籠められている。死は陶酔となり美談に昇華される。
修了式に同窓生らがひとところに集められ、T少将から「満州における日本皇軍兵士の目的は何か?」と問われた。皆が沈黙する中、祖父は揚々と手を上げ「東亜の平和の為であります」と答えた。「その通り」と称賛されたというのも、やはり誇らしげだ。
それから二十年も経たないうちに日本帝国は消滅した。祖父は、日本帝国への想いを青年時代の自分に留めながら、少しずつ変化を受け入れ、自身もまた変化した。
1945年1月、第21次爆撃集団司令官にカーチス・ルメイが就任した。本土襲撃は軍需工場だけでなく、市民を火に巻いて殺すようになった。戦禍はいよいよ凄惨なものになった。降伏しないなら殲滅という、究極の選択を迫られる。それに呼応するように、国民総動員法のもと、市民は義勇兵となり、女も子供も保護されるべき者ではなくなった。
1945年8月初頭、私の父・利一(としかず)少年は富山県婦中町下瀬から北東の空を眺めていた。米軍の撒いたビラ通りだった。市内で炎の竜がのたうち回っている。その光景は、晩年まで彼の網膜に焼き付いた。
それは少年の「海軍大将になり、お国のために戦う」という夢を燃やす、梵火になった。新型爆弾が未だ落とされていないこのわずかの間、そして、帝国日本が辛うじて生き残る、このわずかの間、そう。
臣民の脅威は、高速の二乗という途方もないエネルギーで地球を滅ぼしかねない今日の恐怖・原子爆弾ではなく、未だ、舐めるような炎で村を焼きつくす焼夷弾の方だった。
後に少年の妻となる、朝日村庄屋の娘・佳子は、当時二歳で、空襲のことを忘れてしまった。
その父・重一(しげいち)は当時役場に勤めていた。就任の数か月前、建物の屋上でスレートが落ち、二十メートルの高さから落ちた。幸い障害は残らなかったものの、歩行がやっとだった重一は、徴兵を免れた。徴兵検査時両種合格し、次々と戦地へ赴く村の朋輩を万歳で見送るのは、忸怩たる思いだった。満州事変以来五人の同窓生が戦死していた。公報は彼の仕事だった。
空襲の夜は、宿直にあたっていた。
「B29が御前崎方面より北上中」という警報が発令され、間もなく編隊が市内に焼夷弾を次々と投下した。
太平洋上に星のように瞬く島々のうち、不沈空母として有用なところは、米軍にあらかた占拠されていた。本土空襲の脅威は、何ヵ月も前から現実の危機となっていた。米軍との物量の差はもはや明確で、零戦は助けに来なかったし、燃料も無かった。村からは、とうの昔に農耕馬すら消えていた。それに、たとえ航空機を飛ばせても、零戦はB29の直下機関掃討に歯が立たない。南から大勢で飛来し優雅に舞うB29は、まるで鶴のようで憎たらしかった。
役場の前には、巡査駐在署があった。その頃、当番だった南巡査は、雨のように降ってくる焼夷弾を、いつ死ぬかと思いながら次から次へと外に投げていた。奇跡的に助かっていたと、後に、涙ながらに語った。
富山市内の被害は甚大だった。いとこ・Y美は五艘の分家に嫁ぎ、母となっていた。富山空襲の日、防空壕へ逃げ込んだ直後、弾が直撃し三人の子どももろとも爆死した。その夫は、防空壕に入る直前で、顔面に火傷を負うだけで済んだ。
富山市人口約十万人中、死者数二千二百七十五人。数日後の広島原爆投下にて十四万人以上が犠牲となった。一週間後には長崎で七万人。数字の上ではどちらと比してもわずか1、2パーセントという微々たる数だ。
何のために失ったのかと、己に問わずにいられた者はいないだろう。
玉砕を美徳としていた帝国日本の時代だ。死ぬべき人間はまだ大勢いたはずだ。承詔必謹。神たる天皇から「一般国民は最後の一人まで日本国を死守せよ」という詔を、謹んで承っていた。日本が負けるわけないと信じていた。
けれど、重一の中で、二千二百七十五人、このうちの四人は、いとことその子ども三人を含む、命の数に変容し始めていた。
日本の敗戦を告げる放送を、くやしさ、不安や安堵が入り交じる複雑な心境で聞いていた。天皇陛下は厳かに詔書を読み上げた。
「戦局必ズシモ好転セス世界ノ大勢亦我二リアラズ・・・」
戦争が一族の家業に影響しなかったわけではない。さらに、役場は薄給だった。だが恩給制度があった。
GHQ進駐軍が、朝日村にもジープに乗ってやってきた。彼らは鬼畜米英が唄われていた頃のイメージにそぐわず、好奇心旺盛で気さくだった。青年のような顔たちの少将が、役場にやってきて
「どのくらいの者が新聞を読めるか?」
と聞くので
「100%とは言いませんが、95%程度の人間は読めるでしょうね」と応えると、少将は瞠若し「我が国は50%程度だろう」と言った。
ずいぶん教育の程度が低いと内心思った。
重一の子供たち・佳子らは飢えることなく育った。佳子は幼少期から数字に強く、兄弟の中でも抜きん出て優秀だった。富山女子高等学校を次席で卒業した。後に彼女の夫となる利一の母は、高校の先輩だった。
利一とはその頃まだ出会っていないが、彼の母・ちづこの事を知っていた。彼女は、富山高等学校一期生にして首席で卒業し、代表の答辞を残していた。GHQの占領教育で女子の進学は容易になったから、もしかしたらと思っていたが、重一は旧村の考え方が抜けきっておらず、進学は男子優先と宣言していた。落胆は大きかった。だから、いずれ子供を産んだら、皆大学に行かせてあげようと心に決めた。
私の母
利一の母・ちづこは高等学校卒業後、同志社女子大学に進学し、英語教師となった。その後、本家の娘ながら、陸軍軍人の夫に嫁ぎ、転勤ばかりの生活になった。利一をお腹に宿した頃は関東にいて、二・二六事件をラジオで聞き、日本の未来に立ち込める暗雲を憂慮していた。
十年足らずで、利一の呑み込みが早いことが分かったので、疎開の意味も込めて、教育に並々ならぬ熱意を注いでいる富山の分家に預ける事にした。戦後家督相続制度は無くなったが、いとこの男子や孫を、やり取りする事は、ままあった。利一は養子になったわけではないが、従兄弟とは兄弟のように育ったのである。
利一と佳子、まだお互いのことを知らない二人だが、戦後の風土に触れて育った彼らは、急速な経済発展の下地を作った米国に嫌悪感を覚えなかった。
戦後も国体護持を貫いた国だから、圧倒的物量で打ちのめされた事よりも、運を味方につけて利を得た者の方が姑息で、許せないという事なのだろうか。
利一は、家業の材木屋が資金繰りに窮し、アジア系の取り立て屋に苦渋を舐めさせられた。佳子の叔父と叔母は、シベリアに連れて行かれた。引揚船を待つのは母ばかりではない。皆、親戚、友人、恋人を待った。命に一縷の望みがあればそれにすがった。無条件報復を受けいれた後、初志貫徹して最後の一人まで戦うべきだった、とは訴えなかった。
天皇は国民の総意だからか、それとも、皆、とっくの昔に戦争に厭きていたからか。
利一は、後に昭和天皇も戦犯として裁かれるべきだった、と恨んだ。佳子のいとこは、シベリア抑留時代の生活を語ろうとしなかった。ただ「奴らは人間じゃない」とだけ、呟いた事があるだけだった。
彼らは皆、戦前戦中に育んだ思いを戦前にそのまま残し、前へ進み始めた。八十年も経とうという今でも、彼らが宝物のようにそっと思い出を取り出し回顧する時、それを歴史と見るべきか、被害者としての感情を乗せるべきか、加害者として反省するべきなのか分からず、今も皆散り散りに迷っている。
平成や令和の悪童が、喧嘩の際「死ね」「ミサイルを撃ってやる」という言葉を使っただけで、上から下へと大騒ぎし、教育識者を名乗る者がSNSにわっと沸いて出て、喧々諤々の議論になる。
臣民にとって、戦前戦中それほど複雑な概念は無かったはずだ。敵は敵。殺すべき相手。攻撃し排斥するのは、当たり前の事だった。言行一致。戦前と戦後で、それが分かれた。「思っていても言ってはいけない事」が生まれた。
利一と佳子が大人になるまで、多くの事が変わった。急激な経済発展の副作用に、公害病が問題になった。イタイイタイ病の調査のため、おぎの医師が調査のため、佳子の住む朝日村に派遣された。後にカドミウムの慢性中毒と分かるこの奇病は、佳子の故郷である婦中の町・全体を不安の闇に覆った。
二十歳を過ぎてから、石牟礼道子の「苦海浄土」のあらすじにエンパシーを覚え、手をつけたが、閉鎖的な村社会の名残が濃い環境で、ブラウン管のテレビから流れる明るい日本の未来映像と共に育った佳子にとって、あえて見ないフリをした病や争いの歴史は、いつまでも毒だった。小児性水俣病患者の後遺症について、詳細に記載されていることも、これから結婚し子供を生もうという彼女の精神を摩耗した。知ったところで何ができるわけでもない。 読むのを途中で止めてしまった。
幸いにも、当時、佳子や佳子の母ら、親戚縁者にイタイイタイ病を発症した者はいなかった。おぎの医師が調査に来たとき、婦中の西、獅子舞で有名な射水市呉羽の梨が櫛形に切られ、切子模様の皿に盛り付けられていた。
この頃は通院ではなく往診が普通で、佳子は幼少期から、おぎの医師に診てもらっていた。思い出には、ものものしい雰囲気の色が無い。
「けいこちゃーん、どうしたあ?」と、尻下がりの北陸弁で、昼間は開けっ放しの勝手口から入り、居間のみずみずしい梨を一切れ、と、そんな感じの関係だった。
利一は薬学を修め、大阪は道修町の薬会社に就職し、MRとして働き始めた。そこに故郷から佳子の釣書が届き、結婚した。岸辺で長男の正孝を産み、長女の菫を身籠っているとき、利一は転勤となったため、石川県金沢に引っ越した。
そして、私は昭和五十年に次男として生まれた。以降、再び父・利一が転勤となる十二歳までの子供時代を、私は、金沢市西念で過ごした。幼少期に父方の祖父・としかずの癌が分かり、母とよく見舞いに行った。経済成長期、父は会社の金沢市部支店長を務め、連日深夜まで帰ってこなかった。
幼い頃で記憶はおぼろだが、手の抜けない質の母は、舅の看病に根を詰めて、私にテレビの周りをぐるぐる回るといった奇行をチック症と疑い、ずいぶん心配したらしい。
母の心配をよそに、私は当時の「次男」らしく、のびのびと育った。母に用事があるとき、隣家のY姐さんによく面倒を見てもらっていた。母より少し年上だが、あか抜けた綺麗な人だった。元芸者で、戦後満州から引き揚げて来たのだと、後で母から聞いた。
父母共に教育には思い入れが強く、また、世間ではスパルタ教育が流行っていたこともあり、父親のもともと短気な気性も相俟って、私の兄・正孝には特に厳しかった。成績が下がると怒鳴られ、勉強しろと殴られる。
妻から「心霊現象に遭遇したことはあるか」と聞かれ、最近思い出した事を告げた。心霊現象とは少し違うが、光景が目に浮かび、後から徐々に記憶が甦ったことがある。深海に揺れる泡のように、暗い中、ちらちらと白い光が明滅する、幻想的な風景。自分は宙を舞っている。妻はその話を身を乗り出して聞き始めたが、この話はここで終わりなのである。
残念ながら、これは心霊現象ではない。もともと私は幽霊を信じないのだが、この、不思議な光景をなんだったかと記憶を探り、最近ようやく思い出したのが、某かの原因で父は酷く怒り、深々と雪の降り積もる西念の家の庭に、私を放り出しただけの事だったのである。
もう九十も近くなり、さしもの父もそのエネルギーは枯れ果てたらしいが、昔から兄は父に似ず穏やかで優しかった。六歳年下の私を、その陰に隠していた。
信金時代
人間到る処青山あり、という毛沢東の言葉があるが、幼い頃から叱咤激励を浴びせることで、野心を涵養出来るのだろうか。自閉症と診断された息子と日々過ごしていると、子育ての正解がどこにあるか、見失う。というより、はじめから正解など無いことをまざまざと見せ付けられ、茫漠とした世界に、家族で取り残されたような気分になることが、ある。
大学では、史学を専攻したが、私はあまり熱心な学生ではなかった。中世史や哲学など、特定の授業は面白く感じてのめり込んだが、キャンパスライフの大半は、落語研究会の部室で酒を呑んで、寛いでいた。
T先生は、戦前の専門学校時代から在籍する教授ながら、徹底して反戦派を貫いた人だった。当時、千里山のキャンパスで、学生を戦地へ送る挨拶を担ったと語った。私が学生の頃、戦中はまだ身近だった。学生に武運長久と生きて戻ってくる事を祈ると、当局から睨まれた、と寂しげに語った事がある。今ならT先生の感覚は全く正常ながら、「海行かば」が第二の国歌として歌われていた頃である。当時からその感覚を持っていたのなら、先生は異端だ。私はその感覚を、文字からなんとか想像しようとしていた。
その叫び声が、本当に聞こえないのか。
聞こえない。聞こえなかった。
残響か、こだまか、語り継がれるのを聞き、大きくなる感情というものがある。
高校生の頃は、昔海軍大将になりたかったという父を、バカだと思っていた。
折々にして人が語るのを聞き、戦争は人をおかしくすることが、身に染みていくように感じた。父への軽蔑は、尊敬か同情か、名状しがたいものに変わった。
史学を学んだこと、知識そのものは仕事に活きているという実感はないが、今でいうメンタルトレーニング、意識的に感情のコントロールを癖付けることに繋がっていったように思う。
けれど、それにつけてものんべんだらりと過ごした事が災いして、単位が揃わず留年が決まった。母・佳子に泣かれて、初めて後悔した。この時、佳子に我が子の教育に対する熱い思いがあったことを、私は、まだ知らなかった。
団塊ジュニア世代である私がいざ働こうという時、世間は就職氷河期と言われていた。タイミングの良いことに、落研のOBから信用金庫に勤めないかと声をかけられた。
渡りに船と飛び乗った就職先は、メガバンクでなくても、当時それなりに安定して見えた。N支店に配属され、数年後に、八尾のS支店に異動となった。終業後はビリヤードにカラオケ、麻雀、楽しく過ごした。
債権回収
真面目に勤めた甲斐あって、六年後には花形と言われる本支店に栄転となった。そこで何かの役に立つかと社会保険労務士の資格を取ったが、つまらぬ事で異動となった。ある取引先に、個人年金よりも企業年金を厚くした方が良いと持論を展開し、相手の関心も惹いていたが、上司はこれを快く思わなかったらしい。
けれど、後に私の里程標となったのは、「溝浚い」の異名を持つ、債権回収部署、管理部に異動となってからの経験の方だと思う。
異動して早々、信用金庫連合会主催の研修に参加した。これは、千葉初富信用金庫研修センターで行われるのだが、朝はラジオ体操、炊事は当番制と、部活合宿のようで面白かった。生徒は全国から集められていたし、講師も、帝国データバンクの記者から弁護士まで様々で、夜は酒を呑み交わしながら、いろんな話を聞いた。
ある夜は、半島の融資部門長と北海道から研修に来た同業者と、こんなことを話していた。食堂で、彼らはビールから安酒ながら日本酒に移り、思い思いにアテに塩昆布をしがんでいた。
「融資に動産担保を入れたいんだよね」
「動産?」
「まず考えているのは、マグロ。海産関係。特産品。そうすれば、農林水産中金に張り合えて、バランスが良くなる」
「うーん」
これから務めるのは債権回収ながら、営業推進部に所属していた記憶が新しい私には、興味深い事だった。関心の呻き声をあげた。
「でも」
「そうだね。目利きが難しい」
「大阪はどうですか?在日朝鮮人の融資とか」
そう聞かれ、国交のある韓国人との取引は、帰化の有無に限らず、ほとんど気にならないと答えた。
「ただ、難しいのは・・・」
欧米に限らず、日本の外交レベルは高い。日中平和条約、日ソ共同宣言など、主要な経済大国とは条約を結んでおり、今日でも尚、効力を失っていないし、八十年代から九十年代にかけて、ロシアで各所独立の機運が高まったが、それに対しても、新たな独立国と条約を結び、国交がある。
問題は、旧共産圏諸国の、北朝鮮やキューバだ。中でも「ご近所」にあたる北朝鮮は、大使館が無い代わりに、アソシエーションとして朝鮮総聯というものがあるのだが、公安調査庁にマークされている・・・。
管理部の仕事は、一口に信用と言っても、その査定は簡単じゃないものばかり。六年半勤めたが、今でも管理部にいたころの興味関心センサーのようなものが働き、これというニュースには目を留める。
最近では、大胆な融資詐欺事件の記事に目を見張った。記事の「二十年以上に渡り」という書き出しから振り返ると、私が管理部に勤めていた頃には、もう行われていた粉飾決算だ。憤るを通り越し、驚嘆するばかりだが、H会社は、事業業績を水増しし約五十行もの金融機関から金を借りていたことが発覚したのだ。元オーナー社長、税理士、総務部長の三人が送検された。事件が露呈した理由は、ドラマのように切れ者が数値の違和感に追及したわけではない。ほんの少しの綻び、時代の綾。ただの違和感からの、追及だった。上場していない従業員数百名足らずの中小企業が未曾有のパンデミックに晒されても、安定した業績を出し続けている。逆に言えば、パンデミックが無ければ、かの企業はまだ融資詐欺を続けていたかもしれない。
詐欺罪の摘発はおろか、普通義もう行為がほんの少しでも疑われる企業になど、誰も金を貸したくはない。けれど、粉飾決算で取引先を欺くことは、それほど難しくはないのだ。十九世紀・アメリカの元大統領、エイブラハム・リンカーンの名言にある通り、一度に大勢を騙すことはできるし、少数を半永久的に騙すことも可能だ。けれど、大勢を永遠に騙すことはできない・・・。今も昔も、現金を机に広げて財産を照会するわけでは無いのだから、銀行は財務諸表から融資の可否を決めるしか、ないのである。
銀行が金を貸せば、当然、貸し先に対して債権を持つ。反対に、貸された方は債務を担う。貸した方は、利息を取らねば商売にならないが、貸された方は、本音を言えば利息なんて払いたくない。融資部門は「晴れの日に傘を貸し、雨の日に取り上げる」などという揶揄があり、まるで極悪非道の高利貸しと区別無く悪し様に言われることがある。けれど現実は、そんな単純なものではない。「借りたものを返さない」方の倫理観が問われていない。その善し悪しの哲学は、シャイロックを嘲るベニスの商人に潜んでいる。銀行にとって債権回収業務とは、損失を少しでも抑えるための駆け引き。男と女に限らない、エゴとエゴのシーソーゲームである。
融資先は、正常先・要注意先・管理先・破綻懸念先・実質破綻先・破綻先とに分けられる。管理先は、利払いのみで元本が減っていない、など、それぞれに基準がある。また、正常から順に10、20などと数字を当てはめ、行内の伝達をスムーズにする。
私が担当した中に、こんな案件があった。
債権回収はどの案件もそうだが、まず債務者に「返せ」というところから始まる。もはや破綻した会社に電話をかけても意味がないので、オーナー社長の自宅にかける。この物件は担保でもある。
これも繋がらず、後でオーナーは既に出奔していたと分かることも珍しくない。とは言っても、最も憂慮すべき事態は、オーナーが債権を放って逃げることではない。債務者が担保物件で自死を選ぶことだ。だから、電話に出なければ、担保物件へ赴く。気の向かない仕事だ。ところが「彼」は電話に出た。
「もしもし・・・」
「ああ、○○信用金庫管理部のSですが」
「ああ・・・」
いちいち、歯切れが悪い。最もこんな局面でハキハキと話すのもまた、怪しい気がしてくるものなのだが。驚くべきことではないが、その男性は債務者の連帯保証人であり、オーナー社長の娘婿だった。案の定、返済は難しく弁護士を通して話がしたい、と言う。
「心を鬼にして」という表現があるが、私の場合は、心を無にしていた。彼が今いるのは担保物件であり、返せないのなら、家は競売にかけられる。期限を決めるから、その間に立ち退くように、と。
相手も予想できたことであろうに、狼狽する。涙を含んだ声音で訴える。この家には妻も子もいる。それはやめて欲しい、と。返事のしようがない。
けれど、彼は、同情を引こうとしながらも「金貸しの道理」はキチンと弁えた人物だった。保証人としての、限定保証分、千五百万円を払うから、差し押さえは止めてくれ、と懇願された。
即答はできない。彼とその弁護士を呼び寄せ、部長と共に会うことになった。
個人の借金は三百万円を越えると、債務者は約定利息を払うのに精一杯になるという。もちろん債権回収も、通常は利息と遅延損害金から帳簿を付けるのだが、「実質破綻先」は例外で、返済があれば、元金から減らしていく。
私が取り扱った案件の中には【まだ】いなかったが、債権回収にて債務者が自死を選ぶ事例はごまんとあった。目的は、希望を失わせず、借金返済に少しでも近づけさせることだ。学ぶものは多い仕事だが、リラックスしようと思っても、慣れるものではない。
弁護士の隣に肩をすぼめて座った彼は、シャツの襟こそ少しよれていて、悲愴感が滲み出ていたが、こざっぱりとしていて、惨めというほどではない。ここでも、要注意すべきは、妙に晴れ晴れとした表情で、突然感謝を示すような債務者だ。彼の表情は、重いと感じていながら現実を受け止めている者のそれだった。
なるべく、にこやかに挨拶をする。世間に、悪徳高利貸と大差なく見る者がいたとして、銀行には、銀行の道理と秩序があって、動いている。弁護士は、担保物件の査定額を知りたいと言った。
私は、やはり、にこやかに「まだ分からない」と言った。本当のところ、担保物件の査定を出していないはずは無いのだが、それを明かすことは、相手方にとって予想より多かろうが少なかろうが、弁済額の交渉材料になる。だから告げない。そういう手順だった。
交渉は揉めることなく成立した。保証人が限定保証分は払うと言うのは、初めから融資契約に記載のあることで、妻子ある身の上話に同情したわけでは無かった。契約の話で言えば、強制的に担保を差し押さえても良かったのだが、この案件については、やらなかった。
ともあれ、債務保証弁済を途中で投げ出す保証人も少なくない。借りた金を返さない人間に、とことん信用は無くなる。
彼は、部長(と私)の目利き通りに、数年かけて無事金を返済した。銀行は損害を被ったが、後味は悪くない案件だった。
残務処理のために、会う必要があったのだが、その時彼は弁護士を伴わず、一人だった。破産手続きを依頼するのに、顧問ではなく単発で依頼する者も多いので、不自然さは無かったが、挨拶代わりに「先生はお元気ですか?」と聞いた。
彼は目を丸くした。
私は、何かおかしな事を聞いただろうか、と首を傾げた。
「知らないんですか?先生は・・・亡くなりました。南港に遺体があがった、と。殺されたみたいです」
自身の借金を返済した解放感と、禁忌に触れているという昂りが相まったようで、彼は妙に熱っぽく語った。けれど、新聞に載った以上の事情は何も知らないようだった。どうやら、その弁護士は、反社会的勢力の顧問を務める中で、魔が差して横領に手を染め、報復に沈められたのだ。
これには自業自得の感が否めないが、極道の世界でなくても、金のトラブルは怖い。金に名前は書いていない。あらゆる負の感情が、債権回収の代理人に向くことも珍しくないのだった。上司から、管理部にいる間は、駅のホームの最前列に決して立つな、と教わった。