ノーベル化学賞(2021)の話
皆さまお久しぶりです。私は大学院で化学系の研究をしている者です。名前は二ヒコテとでも呼んでいただけると嬉しいです。国語は苦手なので文章作成にはあまり自信がないですが優しい目で気楽に読んでいただければ幸いです。
2021年10月6日にノーベル化学賞の発表があり、ベンジャミン・リスト氏(ケルン大学教授兼北海道大学主任研究者)とデイヴィッド・マクミラン氏(プリンストン大学教授)にノーベル化学賞が贈られました。選考理由は両者ともに「不斉有機触媒の開発」が挙げられています。(ノーベル財団のホームページより転載)
日本では眞鍋淑郎氏(プリンストン大学上席研究員)によるノーベル物理学賞受賞が注目を集めましたが、ノーベル化学賞の受賞はあまり報道されていないような気がします。それはいかがなものか?
文句を言っても仕方が無いので戻ります。今回のノーベル化学賞は有機合成化学の分野からの受賞です。ここ数年は別の分野からの受賞が目立っており、有機合成化学の分野からの受賞は実は2010年以来11年振りになります(ちなみにですが、2010年はパラジウム触媒によるクロスカップリングで根岸英一氏と鈴木章氏とリチャード・ヘック氏が受賞しています)。あともう一つ補足として、触媒の研究でノーベル化学賞の受賞となったのは今回で9回目となります。
早速ですが、不斉触媒について見ていきましょう。まずは基本中の基本の触媒からです。触媒とは中学生でも分かるように言えば、化学変化を早くするために加える物質の事であり、反応の前後でその物質は変化しないという特徴があります。酸化マンガン(Ⅳ)にオキシドール(低濃度の過酸化水素で殺菌消毒薬として用いられる薬品)を加えると酸素が発生するというのが中学の教科書にもある一例です。オキシドールは水と酸素に分解するのですが、何もないと非常にゆっくり反応します。しかし、酸化マンガン(Ⅳ)が触媒として作用することでオキシドールは激しく分解反応を起こすようになります。
触媒にはいくつか種類があり、酸化マンガン(Ⅳ)などの金属、アミラーゼやカタラーゼといった酵素(タンパク質)が主な例です。今回の不斉有機触媒の開発される前までは有機合成化学の分野においても使用される触媒はこの2つしかありませんでした。今回の不斉有機触媒はそのどちらでもありません。リスト氏とマクミラン氏が開発した不斉有機触媒は今までにない画期的な触媒だったのです。
じゃあ具体的にどう画期的だったのか。後で詳しく書きますが、安くて環境に優しく更に不斉合成を伴う医薬品などの大量生産にも繋がりました。今回のノーベル化学賞はその面が大きく評価されているので大事な観点であるのは間違いありません。
ここからは不斉有機触媒についてです。話がだんだんと難しくなっていくので細かな説明も用いてなるべく伝わるようにがんばります。よろしくお。
有機触媒と言うくらいですから、今回は金属触媒の話は割愛します。金属触媒は金属触媒で話したいことがあるのでまた別の機会で。次に不斉触媒と言うのは不斉合成反応の際に用いられる触媒です。不斉合成というのは、ラセミ体(鏡像異性体の等量混合物)から光学異性体を作り分ける事です(または一方の光学異性体の生成割合を増やす事です)。光学異性体と言うのは、分子の構造が鏡を通すと一致するような構造をもつ2つの異性体同士の事を指します(異性体は同じ化学式をもつ異なる物質同士の事です)。構造自体は非対称なだけですので、他の異性体のように化学的性質・物理的性質が異なる訳ではなく、生理活性が異なるくらいしか違いはありません。そのため、光学異性体を分離するのは極めて難しいです。ただ、その生理活性の違いが生化学や薬学の分野においては致命的な弱点となることもあります。その一例がサリドマイド薬害です。
サリドマイドは非バルビツール酸系の化合物で、日本の(現在の)大日本住友製薬がイソミン、ドイツのヘミー・グリュネンタール社がコンテルガンという商品名の睡眠薬として1957(1958)年から1961(1962)年の間販売しました。しかし、妊婦が服用した際にアザラシ肢症(四肢の骨の欠損や極度の発育不全が原因となって手足が直接胴に付いているように見える奇形)をもつ奇形児が相次いで報告されました(日本だけではなく世界中でです!)。その原因を探った結果、サリドマイドのラセミ体(市販のサリドマイドはラセミ体として販売されていました)のうち、R体のみが本来の作用である催眠作用をもっており、一方のS体は催奇形性をもつという事が1979年に判明しました。サリドマイドは1960年の初期に暫くの間は販売停止となります(現在はサレドカプセルという商品名で催眠薬とは異なる用途で販売されています)。これは不斉合成が可能な現代では防ぐことができたのかもしれません(ただ現在ではサリドマイドのR体のみでも平衡反応によりS体も生成してしまうため副作用が及んでおり、どのみち有害だったのではないかとされています)が、当時はまだそんな技術はありませんでした。サリドマイド薬害の一件でいかに不斉合成が重要かは分かっていただけましたでしょうか?その不斉合成に大きく貢献するのが、不斉有機触媒なのです。(下図は名古屋工業大学が公開しているものです)
酵素はその不斉合成に向いている触媒です。不斉合成を効率的に行うためには不斉有機触媒の開発が必要不可欠です。ベンジャミン・リスト氏も不斉有機触媒の研究を行った人物です。
始めはもちろん酵素からです(だってまだ酵素しか知られていないわけですし)。酵素というのはアミノ酸が何個も何個も集まってできたタンパク質の事です。何種類ものアミノ酸があると言っても全部が全部反応するわけではありません。リスト氏が考えたのは「本当に酵素じゃないといけないのか?」「触媒として必要な最低限の物質だけでよいのではないのか?」という事です。極論を言ってしまえば「触媒として作用するのが1種類のアミノ酸だけならそのアミノ酸を触媒として利用することができるのではないか?」という事でもあります。
その考えは見事的中します。リスト氏2000年にたまたま偶然プロリンというαーアミノ酸を使ってアルドール反応(求核付加反応の一種で、アルデヒド同士を反応させるとアルデヒド基とヒドロキシ基をもつ有機化合物(アルドール)が生成する反応などの事です)を行った際にプロリンが触媒活性を示すことを発見したのです!要はプロリンというαーアミノ酸が不斉触媒となり得るというのは一見して単純だが、単純すぎた故に誰も気付かなかったことに気付いたというのがまた面白いんです。別にリスト氏の前からプロリン触媒の研究が無かったわけではありませんが、忘れられていました。忘れ去られた研究内容に再び光が灯ったのです。プロリンを触媒に用いることで一方の光学異性体の割合を大きくした不斉合成が可能となったわけです。(下図はプロリン)
先程も述べたとおり、酵素はアミノ酸が何個も何個もペプチド結合で結合した巨大な分子なので複雑な構造をもちます。一方プロリンはαーアミノ酸ですので構造自体は極めて単純です。リスト氏はこの実験により、プロリンがアルドール反応において有効な触媒であることを示したのです。プロリンは酵素でもない、金属でもない単純なアミノ酸です。そのアミノ酸が触媒として利用できることは環境にもお財布にも優しかったのです!(プロリンは今まで知られていた不斉有機触媒よりもずっと安価でした)
次にデイヴィッド・マクミラン氏の話です。マクミラン氏は当初は金属触媒を用いた不斉合成の研究をされていました。しかし金属触媒だと安全性や反応性の問題があり、触媒を再度見直す必要がありました(金属は反応しすぎてしまうことが珍しくなく扱いが難しいのです。あと金属は高価だし・・・)。
そこでマクミラン氏が注目したのはリスト氏と同じくαーアミノ酸を用いた触媒でした。マクミラン氏が求めたのは金属と同じように電子を収容または供給できる単純な不斉有機触媒です。具体的には電子との親和性の高い窒素原子をもつイミニウムイオンの触媒を追求しました。やがてマクミラン氏はαーアミノ酸であるフェニルアラニンに特殊な反応を施しイミニウム塩(イミダゾリジノン化合物)の触媒を完成させ、不斉ディールス・アルダー反応の触媒に利用することに成功しました。不斉ディールス・アルダー反応とはジエン(二重結合を2個もつ炭化水素)にアルカンを付加して炭素の六員環を形成する反応です。この触媒をマクミラン触媒と呼びました。更にマクミラン氏はSOMO-ACTIVATION(エナミン(二重結合を持つ炭素原子にアミノ基が結合した化合物の事です)の中間体を一電子酸化生じたラジカル中間体を化学結合の形成時に活用する事です)という概念を提唱し、新たな有機触媒の分野を開いたこともノーベル化学賞の受賞に繋がっているかと思います。(左がフェニルアラニン・右がイミニウムイオン)
リスト氏とマクミラン氏はそれぞれ別々の観点から不斉有機触媒の開発を行いました。この不斉有機触媒の研究が特に役立ったのは医薬品の合成です。これが冒頭の大量生産の話にも繋がってきます。
ストリクチニンという緑茶に含まれるポリフェノールはインフルエンザに対して活性を示す生理活性物質として知られていました。ストリクチニンは合成の際に29回もの化学反応が必要で、これは医薬品の合成であるあるなのですが、化学反応を行う際に副生成物ができるため、それをいちいち分離・精製してはまた副生物が生成・・・(以下略)を繰り返すため、最終的に生成する目的物はごくわずかなんて事がよく起こります。不斉有機触媒はカスケード反応(一度の操作によって反応が次々と起こるようになる(ある1回の反応で活性をもつ官能基をつくるためです)反応の事で、ドミノ反応とも呼ばれます)を可能とし、ストリクチニンの合成のプロセスを短くすることに成功しました。これにより、ストリクチニンをより多く生産することが可能となりました。
更にもう一つ。インフルエンザに対する医薬品として知られているタミフルの合成の際にも不斉有機触媒が活躍します。タミフルの合成は何種類か手段があります。細かい事まで書くと文字数が4000文字を超える(実は既に超えてるが)のでざっくりにはなりますが、まず一つは八角に含まれるシキミ酸という物質を用いた合成方法です。この方法は11回の合成が必要なものの、割と効率的にタミフルを合成することができます。しかしながら、肝心な原料のシキミ酸は高価でしかも天候により供給量が大きく左右されてしまうことは大きな問題点なのです。(左はシキミ酸・右はタミフル)
ハーバード大学のイライアス・コーリー氏らは1,4-ジエンと活性化エステルをディールズ・アルダー反応(この際に不斉有機触媒を利用します)させることをスタートとしてタミフルの全合成に成功しました。更に東京大学と北海道大学の教授である柴崎正勝氏らは1,4シクロヘキサンジエンから誘導できるアジリジンという物質をスタートとしてタミフルの全合成に成功しています(これが2006年の話です)。いずれも共通点として挙げられるのがシキミ酸が不要という点と独自開発した不斉有機触媒を合成に用いているという点です。不斉有機触媒を用いたこれらの合成法やここでは紹介しきれなかった他のタミフルの合成法(東京理科大学の教授である林雄二郎氏のタミフル合成法など)はシキミ酸を必要としないタミフルの合成法として大いに注目されているのです。
最後の方は少しノーベル化学賞から話が逸れてしまいましたが、現在では不斉有機触媒は医薬品の合成の面で特に大活躍しています。サリドマイド薬害から始まった不斉合成に用いる触媒の探求、やがて不斉炭素触媒は金属・酵素の枠組みに囚われない新たなステージへと更なる歩みを進めています。その不斉触媒の飛躍的な発展において大きく貢献したベンジャミン・リスト氏とデイヴィッド・マクミラン氏は正に今回(2021年)のノーベル化学賞の受賞に相応しいと思いませんか?アミノ酸を触媒として利用できるのは単純が故に気付きにくい案外盲点のようなものだったのかもしれませんね。もう一回言いますが、この成果を報道しないのはやはりどうかと思u・・・(殴)。長くなりましたが今回はここまでです。
皆さまとの出会いに感謝、略してC₁₀H₂₂です!