広島原爆の日
朝8時過ぎ、通勤のため地下鉄に乗った。
蒸し暑い台所でお弁当作り、身支度、子供を学童クラブまで送り、駅に着く頃には既に一汗も二汗もかいている。到着した電車はどの車両も満員。でも乗らないと定刻に出社できない。やれやれ。僅かな隙間に滑り込む。乗客同士、好むと好まざるとに関わらず密着する車内。仕方ない。快適には程遠い空間を皆ガマンしているのだ…。
しかし今朝は集中していた。ドアと人と荷物に挟まれながら腕時計をチラチラ見ていた。午前8時15分。暫しの間、広島で行われる平和祈念式典の場面をイメージしていた。
母が先日、74歳の誕生日を迎えた。母は1945(昭和20)年7月に現在の広島市西区で生まれた。
原爆が落ちた日、母は生後2週間だった。以下は母本人が祖母に聞いたと話していたエピソード。
74年前の8月6日の朝、窓際に敷かれた布団で寝ていた赤ん坊の母。強まる日射しに「今朝は暑いけん、奥の部屋へ移そうかね」と祖母が母を布団ごと隣の座敷部屋に移した。その後、30分もしないうちに突然、家が大きく揺れ、激しい音と共に窓ガラスが粉々に割れ床に飛び散った。つい先程まで母が寝ていた真上で。
母の実家は爆心地から4kmほど離れ、小高い丘に阻まれ、原爆で家が焼失するようなことはなかった。それでも屋根瓦が吹っ飛んで行った跡などがあったらしい。
「あの時、お婆ちゃんがお母さんを座敷に移しとらんかったら、アンタらも生まれとらんかったかもしれん」
子供の頃、何度か母が言っていた事だ。
昨晩、明日は原爆の日だと思い出し、小1になる娘に初めてこの話をした。ポカンとしていたけど、ちゃんと最後まで聞いてくれた。
広島に住む母にも電話した。
上京して28年。進学後そのまま社会人となり、広島より東京で過ごした期間の方が長くなって久しい。歳と共に、すっかり涙もろくなり、この話を娘に語るだけで泣いてしまった。
大きな事は何もできていないけれど、聞いた事を、自分も話して伝えたい。
原爆が落ちた日、生後2週間だった母は祖母に寝る場所を移され、無傷だった。その母から自分が生まれ、自分から娘が生まれた。命が繋がれている。
普段は億劫な満員電車での通勤、今朝は生きている事を噛みしめた。