一年二歳計算による春秋暦年表(年表B.)
日本書紀の在位の記述+古事記の崩御の干支年を合わせたもの
https://docs.google.com/spreadsheets/d/e/2PACX-1vRjSpyWcDfXxX89ZXZrGPAn6jfVEmiFWvo2vDYmUqZfIhjTFuOxOio-SGm4eqsSHtrqQ7QhCw-ZjOwX/pubhtml
倭の五王について
年表B.をもとに導出
讃 〇仁徳天皇~履中天皇~(反正天皇)
珍 〇反正天皇~(允恭天皇)
済 〇允恭天皇
興 〇雄略天皇~(清寧天皇)~〇飯豊青皇女
武 〇顕宗天皇~(仁賢天皇)~(武烈天皇)~〇継体天皇
倭の五王の一つの「王の名」に複数該当者がいることについて
対外的な国の代表としての「王の名」で、政情によって、対外的に続けていたりしたのではないかと推測する。
また「印」などによる文書などによる外交にて用いられたのではないかと推測する。
導出の着眼点
讃
1.仁徳天皇五十八年(AD412.5)に朝貢した記録が一致。
2.履中天皇が即位した翌年(AD430)の1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀)
補足.仁徳天皇の治世が長きにわたり、履中天皇、反正天皇になっても、仁徳天皇陵の建設など影響力があったこと、中国王朝が「東晋」から「宋」に変わったことで「讃」の認識が混在していたと思われる。
珍
1.履中天皇、反正天皇、允恭天皇は兄弟で弟の継承
補足.年表B.ではAD437年の1月に反正天皇は崩御されている。允恭天皇が即位するまで暫く空位のままであったが、允恭天皇元年12月に即位された。
その12月がAD437年であれば、AD438年4月は允恭天皇であるが、それ以外の場合AD438年4月は空位の時期となる。その場合、反正天皇を認めたうえで、当時数え16歳であった雄朝津間稚子宿禰(允恭天皇)を擁立をするための対外的な対応だったと思われる。
済
1.AD443年に允恭天皇は数え21歳となり、成人として改めて対外的に認められた。
2.允恭天皇四十二年(AD462年)に崩御される。
興
1.外宮の鎮座がAD477年であることより、当時の斎王もしくは飯豊青皇女と雄略天皇が興
「即位廿一年丁巳」にある雄略天皇二十一年はAD477年にあたり、興の亡くなった年にあたります。
雄略天皇が存命であるとするならば、興は飯豊青皇女
2.仁徳天皇~履中天皇~市辺押磐皇子~飯豊青皇女・顕宗天皇・仁賢天皇の流れがあるので、対外的に雄略天皇による後押しの「興」となっていたのではないか。(推測)
武
1.年表B.よりAD478年、AD479年は清寧天皇で即位の時期、502年は武烈天皇の崩御と継体天皇の即位の時期。
2.飯豊青皇女の弟、または意富祁王・袁祁王の兄弟のうち弟である顕宗天皇(袁祁王)が即位
3.AD478年~AD502年まで存命しているのは継体天皇