【短編】『ヘラクレスの休日』
ヘラクレスの休日
今日は休日というのに、仕事に行かなければいけない。それも昨日退勤する直前に急遽王様から凶暴なライオン退治を依頼されたのだ。王様の頼みだから断ることができず渋々引き受けたが、本来であれば自宅で愛用の剣に磨きを入れることができたのに非常に間が悪い。ぼくは早朝から妻のデイアネイラを寝床に残して家を出ると、同じ町内に住む叔父のリキュムニオスが玄関でビールを片手にロッキングチェアに揺らされていた。早朝からビールを飲んでいる老人など見たことがない。彼もそろそろ天に召される頃合いだろうと思っていると、叔父がぼくに気づいたのか遠くから声をかけてきた。
「ヘラクレスじゃないかー。今日うちでビールでも飲みながら野球観戦しないかー?」
「すみませーん。生憎王様に仕事を任されましてー。もし早く切り上げられたら途中から参加しますー」
「そーかーい。休日なのに大変だなー。幸運を祈るよー」
静まりかえった家々を通っていると、向こうから三人組の女たちがぼくの方へと歩いてくるのがわかった。よく見ると、娼婦をしているホーライ三姉妹であった。
「君たちこんなところでなにしてるんだ」
「ヘラクレスちゃんじゃないの。ちょうど私たち仕事を終えたところよ。一杯どう?」
「こんな早朝にお店なんかやっているのかい?」
「ええ、ここから一里離れた町外れに夜通し開いている店があるわ」
「そうか、知らなかったな。でもごめんよ。ぼくは今日、仕事で遠征なんだ。君たちと遊びたいのは山々だが行かないと」
「あら、休日出勤?若いのに大変ね」
「叔父リキュムニオスでも誘ってみるといいよ。ちょうど玄関でビールを飲んでいるところだから」
「嫌よーおじいさんと飲むぐらいだったら私たち帰って寝るわ」
「いやいや、冗談だよ。それじゃあ行ってくるよ」
「行ってらっしゃい、ヘラクレスちゃん。気をつけてね」
「ありがとう。みんなもいい休日を」
三姉妹はぼくが通りを抜けるまで手を振り続けた。やっと誰からも声をかけられずに仕事に取り掛かれると安堵した。
ライオンの住処に向かう道中、なんだか聞き覚えのある声が村のどこかから聴こえてきた。声のもとを辿っていくと、一軒の大木で作った小さなコテージが立っていた。声が止まり中がなんだか物騒がしくなったかと思うと突然入り口のドアが開いた。すると小屋の中からゼウス様が顔を出したのである。
「ヘラクレス。こんなところでなにをしている?」
「それは僕のセリフです。ゼウス様こそこんな遠くまで来て何をしているのですか?」
「いやあ、なんというか、近頃天候を操るのをサボっていてね。久々に一仕事しようかと思って遠征していたところだよ」
「また豪雨にでもするんですか?」
「まあ、そうだな。嫌か?」
「ぼくは別にいいですけど、他みんながどう思うか」
「そうか、やはり今日は散歩がしたいからやめておこうか」
と言って空を眺めながらぼくから逃げるかのごとく小屋の中へと入っていってしまった。どうせ小屋の中にいるのは浮気相手に違いないのに、なにが散歩だと思いながらぼくはゼウス様を放置してライオンのもとへと急いだ。茨道を行きながら、ふとゼウス様のことを思った。彼がぼくの実の父にあたるお方なのがとても残念だ。まあそもそもこのぼくですら彼と彼の浮気相手の人間との間に生まれた半神半人なのだから、ぼくが説教をしたところでお前がどのようにして生まれたと思うと言い逃れされるのがオチだろう。ろくでもない血を受け継いでしまったと自らを卑下した。
ようやくライオンの住処に到着する頃には、他の神々から巻き添えを食い、日が沈みかけていた。長い戦になれば今日中に王様にライオンの首を持ち帰ることはできまいと腹をくくりながら、いざライオンの巣へと侵入すると、すやすやとライオンが眠っているのである。およそ早めの晩ご飯を終えて、早寝をしているに違いなかった。私は巨大なライオンの枕元まで行き、深呼吸をしてから大剣を振りかざした。すると、大きな頭がコロコロと巣の入り口まで転がっていき、崖に落ちる寸前に停止した。あの偉大なるライオン殺しはあっけなく終わった。
宮殿に帰還すると、王様が晩酌をしている最中であった。ぼくはそれにおかまいなく身に纏っている鎧を鳴らしながら堂々と広間へと入り、長いテーブルの上に討ち取った巨大ライオンの首を勢いよく乗せた。すると、一気にテーブルに置いてあった食器類がそのはずみで浮かんでは着地した。王様は大変驚いて後ろに倒れ込むところを家来が抑えた。
「王様、ライオンを討ち取りました」
王様は恐る恐るこちらを振り向くと、目を大きく見開いた。
「ヘラクレスか!なんと、もう首を持ち帰りよったか。大した物だ」
「王様の御命令ならなんでもいたします」
「よくやった。近いうち褒美をやろう」
「ありがとうございます。では、家で妻が待っているのでこれにて退勤します」
「おお、ご苦労だった」
その言葉一つで、ぼくの休日出勤は大いに充実したものとなった。
帰宅すると妻が人相を変えてぼくのことを待っていた。ぼくがいない間に何があったのか問うてもなにも答えてくれないのだ。しまいには晩ご飯まで抜きにされ、英雄も名ばかりだと萎縮した。仕方なく、叔父の家へとお邪魔すると、叔父は隣人たちを集めて野球観戦をしていた。
「おお、ヘラクレス。帰ったか。どうだ、一杯飲むか?」
「はい、ぜひそうさせてください。もう飲まないとやってられません」
アテナビールを飲むのは久しぶりだった。野球観戦は神側が地球の反対側までバッティングしサヨナラホームランで幕を閉じた。
恐る恐る自宅に戻ると妻はまだ起きていた。驚くことに先ほどの怒りは全て消え去ってしまったようで、ぼくに紅茶を出してくれた。
「ありがとう」
と言って、少し濁りのある紅茶を少しずつ口に注いで、ゆっくりと飲み込んだ。すると、途端に目眩がしたかと思うと、次の瞬間ぼくは床に倒れ込んでいた。意識が朦朧とする中、妻がぼくのもとへと駆け寄ってくる様子が確認できた。やっとのこと妻の声を聞き取ったが、うまく話の内容が理解できなかった。
「あなたには死んでもらいます。遊女と遊んでばかりで、今日も遠征などと嘘をついて他の女のもとへと行っていたんでしょう。全てヘラ様から聞きましたわ」
こうしてヘラクレスは息途絶えたとともに、宮殿の広場には彼の偉業に敬意を払うかのごとく巨大な像が建設された。
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