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プライオリティの象徴

(再掲+修正・加筆)

クリムゾン・グローリーという名のバラがある。1935年にドイツのコルデス社によって作出されたモダンローズだ。

色は輝かしい情熱的な赤というよりは、少しゾクッとするような僅かに黒みを帯びたコニャックを思わせる濃厚な深紅。そのオーラを凝縮してトーンを落とした魅惑的な美しさを引き立てるのは、一度嗅いだら忘れられない優雅で甘美な香りである。自ら発する独特の色彩を冠するドイツのバラは、見つめる者の感情を限りなく搔き乱す。

第二次世界大戦中、イギリスは敵国ドイツで製造されたあらゆるものを輸入禁止としたが、このクリムゾン・グローリーだけは例外として秘かに輸入が許可されたという。戦時中においても、敵国のバラは人々を惹きつけ、イギリス国内へ無傷で届けられた。魅力的なものは国境の経済封鎖も制度も乗り越えてしまうのだということを体現しているバラでもある。

以前、このバラ自身が作出されるまでの系統図を調べてノートに書き留めたことがあるが、そのあまりの複雑さに頭がクラクラした。世界を魅了する銘花はそれ自身も単独で販売される一方、交配元の親になる場合が多い。現在私たちが目にする赤いバラに、このクリムゾン・グローリーの遺伝子が入っていなものはないと聞く。

そんなカリスマ性を備えたバラをホームセンターで見つけ、様々なバラの書籍を読み漁って研究を続けた。私のかつての仕事は激職に分類される技術職であったが飽きてしまい、その後職を転々としながら引っ越しの多い生活を送っていた。そしてたとえどんなに危機的で過酷な状況であれ、私はこの赤バラとともに移動してきた。私は自覚していた。私にとっての最優先事項は仕事ではない。クリムゾン・グローリーなのだ。

それでも生物である以上は寿命がある。もうあと5年ほど咲き続けてほしいという贅沢でやっかいな気持ちを持ち続けていたが、1年前から葉っぱは展開するものの1輪も咲かなくなった。1輪もだ。彼女がそのカリスマ性を失ったらどうなるのだろう、私は。

私は植え替えなど毎年真冬のうちにやらなければならない全ての作業を終え、新芽が虫にやられないように毎朝チェックしていた。そして今月に入って残った生命力を振り絞って2輪咲いてくれた。花が日差しで疲れないように早めに切って花瓶に差しているが、この香りで部屋が満たされるのはこれが最後だろうと思っている。

このバラを小説で描けたらどんなに素晴らしいだろうと思うことがある。しかしカリスマ自身が主人公になってカリスマたる所以を語ったところで、一般には疎外感を与えるだけで周りはついていけない。実際にそれで失敗をしている小説はある。そのカリスマ性を際立てるためには、愚かで凡庸な語り手が必要だ。であればその小説のストーリーテラーは私でなければならない。

・・・そんな夢のようなことを考えながら、彼女の新しい株をネットで探してみた。手に入ったら、私はきっとまた彼女を優先して生きていくのだろう。

何よりも、だ。
誰よりも、だ。

※この文章を書いたのは今年の春です。その後、このクリムゾン・グローリー、全ての枝を整理をする強剪定という本来なら真冬にやるべき作業を、あえて梅雨明け前の6月下旬に行うという、全てのバラ栽培家から怒りを買いそうな掟破りを行いました。賭けでした。すると、あの酷暑の中で新しい葉を展開し、秋になって気温が下がると新しい枝をぐんぐん伸ばし、何輪も蕾を付け、見事開花に至りました。古い枝が多すぎて栄養が届いてなかったのかもしれません。


#バラ #クリムゾン・グローリー  #最優先事項

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