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雑記/否定するにも勉強が必要

 僕は幼馴染が牧師の息子ということで、流されるようにクリスチャンになり、今もその縁でニートながらなるべく日曜礼拝には参加している。もはや僕にとっては『イエス・キリスト』という存在は信じるとか信じない以前に頭の中に自然と在るものだ。それは別に大仰な話ではなく、急な腹痛が襲ってきた時に思わず祈っているとかそういうレベルな訳だが。僕はそこまで敬虔な信徒ではない。信じないよりは信じる方が心が楽だから、祈っているくらいのものだ。

 実はこういう話を他人にすることは少ない。何故なら、そんな話を現代人にしたところで大抵『でも、神なんて実在しないじゃんw』という冷笑の餌食にしかならないからだ。しかし、もしその議題で本格的なディベートがしたいのなら最低でも古代ギリシャからスピノザ・ライプニッツ、そして近代哲学に至るまでに神学と科学がどこでどう分離し、今はどんな議論が行われているのかを真剣に学んでいないとスタートラインにも立てない。何故なら、素人が思いつくような『無神論』などは17〜18世紀に散々擦り倒され、『有神論』サイドからもそれなりにテンプレートな切り返しが生まれているからだ。そういった、過去の巨人の肩に乗ればわかることをわざわざ『自分の頭』でやり直そうとするのは車輪の再発明くらい意味のないことだと思う。

 世の中は、そういった『反知性主義』のような人間ほど物事を否定したがるが、実際には何かを否定するにはその否定したい事柄について誰よりも詳しいくらいでないといけないのだ。

 そもそも、この世の全てが科学的に証明可能かどうかという論題が既に神の在不在を踏まえた哲学的な領域になってくる訳で、現代科学を持ってしてもそうした古の議論に未だ悩まされている。端的に見えないからいない、とか、不幸な人間が救われてないからいない、とか、奇跡を起こせないからいないみたいな簡単な話ではないのだ。

 そんなんで論破(嫌いな言葉)したことになるなら、哲学などという分野はここまで発達しなかっただろう。

 とにかく、安易に否定することは、安易に肯定するのと同じくらい理性的でないことなので、鱗滝さんに怒られてでも判断は遅いくらいでいいのだと思う。

 神はいるかもしれないし、いないかもしれない。それはまだまだ決着がつくことではなさそうだ。

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