雑記/数字が取れないことは悪か?
Twitterなんか見るべきじゃないんだけど、朝から麻布なんとかみたいな人間の「売れない小説家って自分の不幸を文章にし過ぎ、誰もお前の不幸になんて興味ない(笑)」的な冷笑ツイートを見てしまってげんなりした。それが現役の作家だというから尚更、文筆家という生き物の堕落に落胆せずにはいられなかった。僕は逆に文章から不幸を感じない作家なんて一切読む気にならないので、こんなのを真に受けた作家志望が増えても困る。
別に小説に限った話でもないけど、現代(といってもSNSが発達したここ15年くらい)ではとにかくあらゆる業界が可視化された数字を追うだけのゲームになっている節がある。芸術全般やあげくには研究者まで数字や人気で、それを続けるべきか否かなんてことが話題になったりする。何百年も続いてきた伝統芸能が数字が取れないという理由で途絶えたりもする。正直、殆どの人間がSNSによって脳の報酬回路を壊されてイカれちまったのさ、なんて風に思う。そして世の中の方も、そういう射倖心を煽るのに躍起になっているから尚のことだ。例えば、SNSではオススメ機能なんて名目で、誰しもに人気者のバズったツイートを目につく所に置き『自分もバズりたい』という欲求を起こさせようとするわけだ……承認欲求に無頓着な人間は金にならないので。結果として、まだ年端もいかない少女が身体を見せつけるような踊りをして数字を稼いで運営会社の養分になっていたりする。子供の方が大人よりは脳が壊れやすいだろう。まぁ、敢えて露悪的なことばかり言って、論争を巻き起こして金を儲ける大人とどっちが醜悪かと言われれば間違いなく後者だが。
最近は何処へいってもランキングばかり目にする。そりゃ昔から番付みたいなものはあったし、人間は本質的に比べ争うなのが好きなどうしようもない生き物だというのは過去にも書いた。だが、それにしたってランキングを良く目にする。カフェに入っても、本屋に入っても、一番はこのコーヒー、一番はこの本です。みたいなことがわざわざ大きく書いてあったりして、それがどうにも落ち着かない。しまいには、どっかに自分が人類で今何番目に価値があるかの札でも付けられているんじゃないかと気になり出してしまう。それこそがもはや感染させられた現代病なんじゃないかと思う。自分は今何番目なんだろう、そんなことは生活の中で気にする必要がないのにまるで数字が取れないことが悪かのように思わされる。
そういえば、かつて不倫した東出さんが山奥にこもってアナログな暮らしをしているという記事を昨日目にした。人々はゴシップの方にしか興味がなかったみたいだが、僕は読んでいて彼の生活はとにかく素晴らしいと思ったな。社会から隔絶されたところで、世間に受け入れられないような生活をする、そういうのはSNSに毒された現代人には絶対に選べない選択だろう。殆どの人間が承認欲求に狂い炎上に怯えながら暮らしている中で、不特定多数への承認を捨て叶えたい形で欲求を埋めて批判を恐れない。倫理観は一旦さておいて、今の人間が目指す形はああいうものだとさえ思ったね。ライ麦畑でつかまえてのホールデンが目指していたものの亜種というか。逆にそういう完全な形での自己満足が、今の芸術家志望には足りてないとさえ思う。誰にも読ませるつもりがない作品というのは即ち人生だし、逆に言えば誰かに見られることを前提にして形作る人生なんて気持ちが悪い。僕は東出さんの生き方からそういうものを見出していた。
とにかく数字に人生を侵食させるな、とは改めて思ったね。SNSなんて辞めて山に篭ろう。