三日ぶりに家でゆっくり過ごしたニートの戯言 8/22
タイトルの通り、月曜からずっと何かしらの用事で外出していたニートが三日ぶりに家で過ごしていただけなので、今日はこれと言って書き残すこともない。余程、疲労が蓄積していたのか目覚めたのが正午過ぎだったので一日を無駄にしてしまったようで少し罪悪感があった。だが、世間的には12年間もの時間を無駄にしてきた僕が、今更たった一日を寝て過ごしたところで何も変わらないので気に病むのをやめた。
ところで先月辺りから、軽い散歩(2〜5km)と筋トレ(腕立て・腹筋・スクワット)を日課にしている。基礎的な体力がなければ社会復帰など到底不可能だと思ったからだ。そのお陰か、浴室の鏡に映る肉体が少しずつ引き締まってきたように感じる。連日出かけられる体力もついてきた、明確にそれらの努力を始めた意味はあったのだと思う。誰かがそれを評価してくれるわけではないが。
時折、こういう純粋な努力そのものにRPGゲームのような評価が発生すればいいのにと思うことがある。社会の仕組みとして、他者の役にも立っていない努力に評価が与えられるわけがないのは理解しているが、裏を返せばそういう実社会のケチくささから逃れる為にMMOなどにのめり込んで戻ってこられなくなる人間の気持ちは痛いほどよくわかる。生きていく為に、必ず他者からの承認を得なければいけないというのは、息苦しいものだ。子供の頃からテストやなんやで能力や集団への貢献度を比較されて生きるのは、望まないフルマラソンを走らされ続けているに等しい。それでは途中で社会との関わりを止めたくなってしまう人が現れるのも致し方ないように思える。僕の問題とはまた別だけれど。
芸事も同じだ、下手な絵や文章をどれほど生み出しても一銭の価値も与えられないが、創作物を生み出す為の純粋な労力そのものには有名画家だろうが、五歳児だろうが貴賎はない。そうして生み出された成果物の違いは鑑賞する人間が価値を付けたくなるかどうかの差でしかなく、そういう風にして付けられた価値さえも自然に湧いたものか、社会に誘導されて付けたものなのかは定かではない。大きな美術館に無名の子供の落書きを立派な額に入れ、解説をつけて飾ったらそれが本当は無価値なものだと指摘できる専門家がどれだけいるだろう。人間の価値判断なんて、集団意識に流されてしまう酷くあやふやで偏ったものである。プロでさえ見抜けないことがあるのに、その辺の素人なんて余程信用できない筈だ。聖書にも記されているように、恐らく人が人を裁く(判断する)など本来は無謀なことなのだと思う。世の中にはもっと価値がある筈なのに見出されていないものや、価値以上に過剰な対価が払われているものが沢山あるのだろう。
だったらもう、いっそのこと神様的な第三者がこの世にいて外側から価値に見合った対価を与えてくれてもいいんじゃないかと思う。その方が人が人にとやかく言いあって変な値札がつくよりは、まだ納得がいく気もするのだ。まぁ、僕はその神様からさえも認められる存在ではないだろうけれど。