サイゼリヤ問題について
まず、「サイゼでいい」と「カップ麺でいい」の対極として、元来、
「男は女を高い店に連れて行かねばならない(できないと女に失望される)」
と、
「女は凝った手料理を作らねばならない(できないと男に失望される)」と言われている。これは端的に、
「食わせ続ける男の財力」
と、
「食わせ続ける女の家事能力」
のことを言っている。
つまり、
「サイゼでいい」
「カップ麺でいい」
は、
「(たまには)サイゼで(も)いい」
「(たまには)カップ麺で(も)いい」
である、という風に切り取った一場面でなく継続性(男なら経済的な、女なら家庭維持運用的な)を提示できなければ生理的欲求・安全的欲求を満たせずアウト、という罠を無意識に仕掛けている人たちがいる。
その人たちには、もう一つの無意識の本音というか社会的欲求(安全的欲求や生理的欲求にも抵触する)があり、
「サイゼでいい」には例えば「祭祀の義務を果たす気はない」
「カップ麺でいい」には例えば「義実家の急な入り用を支援する気はない」といった、将来の義務を限定化するための布石が打たれている。
これは、自分たちと子供が生きていく継続性には責任を負うが、世代を超えた伝統的な継続性には貢献したくないと言っていて、特にSNSで盛んにやりとりしてるアラフォー以上はこの件でそこを脅かされたくなくて、触れられないようにさまざまな言説でまぶしている。
だから、祭祀の義務に直面したことのない若者や、そもそも財力も家事も共助しないとやっていけないし祭祀の義務なんかにお金を回せそうにない若者にとっては、そのような社会的欲求(安全的欲求や生理的欲求にも抵触する)がないのでピンと来ず、SNSでは議論に参加してこない。
また実際は、わざわざ言うまでもなく「たまにはサイゼでいい」「たまにはカップ麺でいい」から「サイゼは嫌だ」「カップ麺は嫌だ」までいるが、ほとんどのアラフォーの人たちはそもそも「サイゼ問題」を知らない(フィルタに掛からない)し、SNSもそんなにやらないし、彼岸も墓参りするし、実家同士助け合う。
イラストの女の子はこの層の象徴(リアルにはもっと地味な見た目の人たちが多いでしょう)であって、したがってTwitterの名士たちは生理的に受け入れることができないのだと思う。
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