ボールのコントロールの妙について
いつか書いた遊びの妙に引き続き、公園お遊戯シリーズと題してお送りする大河ドラマ的第二弾!(戦後のカストリ雑誌同様、次号が出ることなく消えゆくはかなき運命をギュンギュン感じながら、、、)
今夜私がいただくのは、「ちょっと悪さに目覚めた十代の暇なお兄さんたちか疲れたおじさんしかしない夜の公園、野球ボール投げ込みルーローハン」です。
子供の頃の憧れは数々あるところ、野球選手になりたい的な団塊の世代が口をそろえて唱和していた夢は現代において全く受け入れられない。子供たちは疲れている。奴らもう子供たちではない。朝から学校、夜塾、初老の老人のようにその瞳の奥底には諦観の悟りの光が宿っている。
さて、拝金主義で200X年にはけつふくかみにもなりゃしねぇ~とジード軍の一人が描写する紙切れを我らはあがめている。紙きれを追いもとめる。勉強、勤労、努力、誠実、信頼もすべてけつすらふけない紙のためにささげられる。とりわけ、若さが浪費されゆく姿は痛ましい。ドリアングレイほどの美男子でなくてもね。
脱線および前置きはいつものこととして、野球ボール投げ込みの話である。子供の頃、あぶないから触っちゃダメ!とこうお節介できれいなおねぇさんから注意された経験は誰しもあるだろう。あの頃が、人間の最も幸せな時期である。でその注意されることの一つとして、硬式ボールというのが私の思い出にある。軟式はまだ安全、、、だが、硬式というおそろしい悪魔。あの悪魔はデッドボールで人を殺害し、投げての肘、肩も確実にむしばむというではないか。まさに呪われた剣。攻撃力、魔法はすごく強いけど、使用者にダメージがたまったり、バ~サク状態(バーさんがサクッとしていると思っていたのは私だけか)になったりするのである。
で、その硬式球を最近アマドンで買った(おじいちゃん、アマドンやのうて、アマゾンやでって孫に言われたい)。本物だぜっていう感覚が非常に心地良い。独立した大人の一人の愉しみ。恐怖と喜びで、ちょっとえびぞるのである。
公園のフェンスから18.なんぼかメートルを大体で測定(小股で30歩くらいでした)そして大きく振りかぶっての主人公ばりに、天才的なコントロールだが球はおそくて、リードしてくれるバッテリーと出会って甲子園をめざして、的な像を思い浮かべながら投げる。
つづく