運が良かっただけで偉そうにしたくない

人生は私が認識している以上に運ゲー要素が強いのではないか、と思うことがあった。
Twitterで、「ご遠慮ください」が「禁止」の意味だと知らなかった、という方の投稿を見た。

意味を知らなかった方が悪く言われるようなリプを見たのだが、本当にそうだろうか。ご遠慮くださいの意味を知らない人は、努力不足、あるいは勉強不足なのだろうか?

日本語が母語ではなければまた話は別だが、ほとんどの人は、「ご遠慮ください」の意味を、自らの努力で知ったわけではないと思うのだ。

これまでの人生のどこかのタイミングで、恥をかく前に、たまたま、運良く、その意味を知る機会に出会うことができただけである。

知識を得るいう行為の中には、特に何もしなくてもたまたま情報が入ってくるパターンと、自ら情報を得ようと努力して情報を得るパターンがあると思う。

我々は様々な情報に偶然出会う。
多くの人がただ偶然出会った情報に、同じくただ偶然出会ってない人がいて、別に偉くも何ともなく偶然出会っただけの人たちが、偶然出会ってないだけ人を責めたり馬鹿にしたりしている図を、私は気持ち悪く感じた。

少なからず、努力して得た情報もあるだろう。
努力がしばしば1人きりでは成立しないことを、忘れずいたいと思う。自分が勉強を頑張ったからこれだけの知識や技術を持っていて、彼らは勉強を頑張らなかったから自分が持つ知識や技術を持っていないのだ、と思い上がるのは短絡的すぎる。

努力へのアクセシビリティが、人によってあまりにも違うのだ。
めちゃくちゃ分かりやすく言うなら、勉強を大切だと思っている親と、くだらないと思っている親の元では、勉強を頑張ることへのハードルの高さが全然違うだろう。
実際はこんなに単純な話ではなく、努力へのアクセシビリティの高さには、もっともっと色々な要因が絡んでくると思うのだが、勉強に限らず、頑張ることが比較的簡単な環境と、そうでない環境がある。

自分が何かができてそれを他人ができない時、頭ごなしにその人を否定するのは短絡的だ。
逆に他人が持っているものを自分が持っていないと気づいた時、自分だけを責めるのは間違っていることもある。
だからなんだってわけじゃないけど、そう思って生きている。

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