思わぬところで、知らなかった自分と向き合うことになった話。④了
こうして見ると、無自覚ながらも結構マイノリティーだったんだなあと思うのだが、実際は多分私のセクシャリティーに気づいてる人は一人もいない。疑われたこともない。悩んだことも特にない。
それは、生物学的な性別と性的指向がヘテロにあたるから、というのも大きいとは思うが、やはり恋愛経験がほぼなくて、なくてもあんまり困らなかった上に、ホモソーシャルから切り離された生活が長かったからかもしれない。
そういや、合コンにも誘われたことないしなあ。
友達少なかったし、周りは(自分も含めて)オタクばっかりだったから、みんな推しのことしか気にしてなかったし(笑)
だから、恋バナとかほぼしない友達しかいなかったし。
してもすぐに推しの話になるから、恋バナはちっとも盛り上がらなかったし。
……あれ?むしろこっちの方が大きい要因か……?(笑)
今現在も、特に生活に支障があることはない。……あ、よそのお母さん方と全く噛み合わないことくらいかな(笑)
もうすぐ卒園だけど、誰とも仲良くなれなかったわ(笑)
ちなみに。
パートナーのことはとても大事に思っている。こんなに楽な気持ちで生きていられるのは、他ならぬパートナーのおかげだ。
たとえ、私のことを全て理解しているわけではなくても、「やりたいようにやったらいいよ」と肯定してくれるだけで、それだけでいいのだ。
所謂、『会いたくて会いたくて震える(西野カナ)』みたいな激烈な恋愛感情はもう私の中にはどこにもなくて(ていうか、私の恋愛感情は元々そういうやつじゃなかった)、静まり返った湖面のように穏やかな安らぎがあるだけなのだが、『これが愛じゃなければ何と呼ぶのか(米津玄師)』と思うくらいには、大切な関係を築けたと思っている。
とても心が楽になる、良い家庭を持つことが出来た。(生まれ育った家庭よりも生きやすいほどに)
そして、結局私は今、どうありたいのか、ということについて。
私は『性別を超越したい』。
それが両性なのか無性なのか流動性なのか、よく分からないが、男とか女とか、もうどうでもいいのだ。
美しい、素敵、魅力的。
そう思えるのなら、可愛かろうがカッコ良かろうがどうでもいいし、それが自分でも他人でも同じこと。
私は私で、したい格好をして、やりたいことをやるし、皆もそうしたらいいと思うし、我が子にもそう教えている。
ドラァグクイーンを参考にしたメイクで送迎する私を見て、保育士の先生が「お母さん見てたら、私もメイクしたくなって」と口紅を塗ってきたことも嬉しく思うし、オフの日のジェンダーレスなメイクと服装を私を見たよそのお母さんに「君のお母さんはカッコイイね」と声をかけられたことを、息子が嬉しそうに私に報告してくれることも誇らしく思う。
女性の体を持って生まれたことは、私にとっては『体質』くらいのことなので、特に何とも思ってないが、これは私の体なので、私が付き合い方を決めていこうと思っている。
……と、まあこれが、私が思わぬところで私と向き合った結果の、現時点での結論である。
今後変わるかもしれないし、変わらないかもしれないけれど、この気づきが私の人生において特別なものであることは間違いない。