見出し画像

高画質より美しいもの

一時期、デジタルカメラやスマホで写真や動画を撮り、それを編集することに夢中になっていました。撮影したものを色調補正したり、BGMをつけたりして、いかに魅力的に仕上げるかを考えるのが楽しかったのです。SNSに投稿すれば、友人から「素敵な写真だね」とコメントをもらえることもあり、それがさらにやる気を後押ししていました。

でも、ある日、登校中に目にした紅葉が私の中で何かを変えました。

登校中の紅葉

その日は特に晴れていて、朝日が街路樹を照らしていました。木々の葉は赤や黄色に色づき、風に揺れてキラキラと光っていました。その一瞬が、とても綺麗で、思わず見入ってしまいました。

「撮りたい」
反射的にスマホを取り出そうとしました。でも、ふと立ち止まったのです。この美しさをカメラで切り取ることはできるだろうか?どれだけ高画質のカメラを使っても、どんなに編集を頑張っても、この瞬間の空気や光の揺らぎ、体中で感じている感覚までは再現できないのではないか、と思ったのです。

画面の中と現実の違い

そのとき初めて、「写真や動画に残すことが必ずしも最良ではない」ということに気づきました。これまでは、美しいと思った瞬間はすぐにカメラを向けてきました。それが「記録する」という行為だと思っていたからです。でも、その行為が時に、自分の目で見て感じる時間を奪ってしまうことがあるのだと、紅葉を前にして思ったのです。

高画質な映像や洗練された編集技術も素晴らしいけれど、それはあくまで「記録」に過ぎません。目の前で揺れている紅葉の葉の美しさを、その場で全身で受け止める感覚とは比べものにならないと感じました。

その瞬間だけの美しさ

自然の美しさには、その場限りのものが多いと思います。光の加減、風の強さ、空気の匂い。それらが偶然に重なって生まれる瞬間の美しさを、どんなに高性能なカメラでも完全には捉えられないのです。

そのとき私は、スマホをポケットに戻し、ただ紅葉を眺めることにしました。目に映る色や形、風の音、木漏れ日の揺らぎ。その場の美しさが心に染み込んでいくような気がしました。記録はしなかったけれど、あの紅葉の光景は今でもはっきりと思い出せます。

見ることと撮ること

写真や動画を撮ることは、何かを「見る」ことと似ているようで、実は違うのかもしれません。カメラ越しに見ると、フレームの中に収めるために視点が固定されてしまいます。でも、自分の目でそのまま見ると、視野はもっと広がり、全体を感じることができます。

もちろん、写真や動画にはそれらの良さがあります。それを見返すことで、当時の記憶が蘇ることもあるし、誰かに共有する楽しさもあります。ただ、カメラを通さずに見ることでしか得られない感覚がある。紅葉を見た日から、私はそのことを忘れないようにしています。

記録しない贅沢

今でも写真や動画を撮るのは好きです。でも、あの日以来、すべてを記録しようとは思わなくなりました。むしろ、「これは撮らないでおこう」と決めることが、贅沢に感じられるようになったのです。

登校中の紅葉のように、目の前の光景をその場で心に刻む。その瞬間の美しさを全身で感じて、記録に残さずとも「記憶」に残す。そんな時間も大切にしていきたいと思っています。

いいなと思ったら応援しよう!

Risa
もし記事を気に入っていただけた場合は、サポートよろしくお願いします。サポートいただけると、研究の合間に一杯コーヒーが飲めるようになります。