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ジェリービーンズがくれた自由
地下鉄を乗り換えるとき、駅のホームで保坂紹子は山田佐恵子を見かけた。
声をかけようかと一瞬思い、苦笑いしてやめた。
紹子は、佐恵子が自分のことを嫌っているのを何となくわかっていた。
彼女が会社内ではよそいきの顔で紹子に笑顔を向けるが
その顔が時々ひきつっているのはわかっていたし、一歩会社を出ると
そのよそいきの顔が品切れになるのも知っていた。
昔なら相手に嫌われていると思うとドギマギして居心地悪く感じたものだが
今は不思議になんとも思わない。
逆にわざと声をかけて相手の反応を楽しんでみたりする。
昔からこんな風だったら何か違っていたかもしれない……
紹子はそう思いながら、佐恵子と距離を取るように、ホームへの道をわざとゆっくりと歩いた。
紹子の元夫・水田宗則はスマートな男だった。いや、スマートな男に見えたと言ったほうがいいかもしれない。
宗則と紹子は仕事関係で知り合った。中堅の商社に勤める宗則は営業をしてていて、紹子の会社にもちょくちょく顔を出していた。
背が高く、いつも笑顔を絶やさず、ちょっと毒舌を含んだジョークで人を笑わせるのが得意な宗則は、女性が多い紹子の職場でも人気だった。宗則が来ると、いつもその周りには女性社員たちが集まって賑やかな笑い声を立てていた。
その宗則に食事に誘われてとんとん拍子に結婚が決まった時、紹子は自分はなんて運のいい女なのだろうと思った。どちらかというと大人しく、控えめで地味な印象の自分が、宗則の目にとまることなんてないだろうと思っていたから。
宗則はデートの時のレストラン選びやプレゼントのチョイスもいつもおしゃれで、彼のスマートな印象を裏付けているようだった。
「僕はね。」
あの時宗則は言った。
「結婚するなら、絶対に紹子さんのような控えめな女性がいいと思ってたんですよ。」
彼のその笑顔を見ながら、紹子は地味だと思っていた自分のことを少し誇らしく感じた。そしてそう言う宗則のことを、きっと堅実な人なんだろうと思い、ますます好感を持った。一生彼についていこう。紹子は心に決めた。
妻には家にいてほしいという彼の言葉に従い、紹子は仕事も辞めた。
もともと残業も多くて忙しい職場だし、子供ができれば辞めることになるだろう。仕事を辞めて、家で彼が好きな料理でも作って彼の帰りを待つ。そんな毎日を想像して紹子はちょっとわくわくした。
あれ、何かが違う…そう思い始めたのは、結婚後3か月も経たない頃だった。
ハネムーンや新居への引っ越しのバタバタがひと段落つき、ようやく落ち着いた生活が始まるんだと紹子は思っていた。
「だから言ったでしょ?テレビの音は消してって。」
朝から宗則の苛立つ声が響く。
「あ、ご、ごめんなさい。」
紹子は慌ててテレビのリモコンの消音ボタンを押す。
毎朝宗則が出勤前に見る番組は決まっている。朝のニュース番組。一番かたいやつ。そして、音量はなし。
初めのうち、宗則がうっかり音を消してしまっているのだと思って、紹子は
テレビの音量を上げた。すると決まって宗則のイライラした声が飛んだ。
朝は宗則に話しかけるのもだめだ。ただ黙って食事の準備をし、宗則の出勤準備を手伝い、黙って送り出す。
朝食のメニューも決まっていた。平日は、ご飯とお味噌汁と小さめの焼き魚とサラダ。週末はトーストと珈琲と目玉焼きとサラダ。
一度朝ごはんのときに納豆を出したら、宗則は眉を吊り上げて怒った。
「納豆とか匂うでしょ?僕が営業先で何か言われてもいいの?なに?これ嫌がらせ?」
平日にトーストを出した時も怒った。
「今日一日外で働く相手に、なに、これ?トーストは腹持ちが悪いって知ってるでしょ?そんなこともわからないの?」
「ごめんなさい。すぐ取り替えます。」
「これ、無駄にするつもり?僕が一生懸命働いて稼いだお金で、君はこれを買ってるんだよね?」
「ごめんなさい。無駄にはしません。私がお昼に食べますから。絶対に無駄にはしません。」
紹子が何度も謝ると、宗則は不機嫌そうに小さくため息をついて言った。
「いいよ。君だってまだ主婦初心者だもんね。仕方ないよね。でも、大丈夫。僕の言うとおりにすればいいから。」
それでもまだ紹子の実家の近くに住んでいたときは良かった。
紹子は昼間宗則が家にいないときは、たびたび実家を訪れた。
家に帰ると母がなんでも好きなものを食べさせてくれたし、いろんなものも買って持たせてくれた。
仕事から帰るたびに冷蔵庫の中をチェックする宗則だったが、
「これはうちのお母さんが持たせてくれたの。」
そう言うと、渋り顔を崩して満足そうに微笑んでいた。
宗則が極度に無駄遣いを嫌うのはもうわかっていた。
こうして人には見えないところできつく節約していたから、外では羽振り良くスマートにふるまえていたのだ。今の自分は世間に向けた宗則の『外側』ではなく、家族として『内側』にいるのだから、一緒に節約するのは仕方がない、紹子はそう思った。
そして『外』で人当たり良くふるまう分、宗則はストレスも多いのだ。だから帰ってきた宗則が、家の中でいつも不機嫌なのもきっと仕方がないのだ。
紹子は自分にそう言い聞かせた。
母子家庭だった紹子は母に心配をかけたくないと、今の宗則のことをあまり話さなかった。一度ちらっと、宗則には細かいところがあるから時々疲れるという話をしたこともあったが、母はきっと几帳面な人なんだと笑っただけだった。紹子の母の前での宗則は、職場での彼と同じだった。スマートで優し気な感じ、いつも笑顔を絶やさない。一緒に買い物に行けばさっと母の荷物を持つし、エスコートする。一緒に食事に行くときもおしゃれな店を選んで母を喜ばせた。思えば、お金を出すのはいつも紹子の母だったのだけれど。
そんなある日、宗則が突然マンションを買うと言い出した。職場の同僚がちょうど立て続けに家を新築したり、マンションを買ったりして、それに触発されたようだった。
「マンションを買うために、もっと貯金しなきゃいけないよね。」
宗則はそう言い、少し離れた郊外のアパートへ引っ越すと言い出した。
「家賃がここより全然安いんだ。ちょっと不便な場所だけどマンションを買うまでだと思えば我慢できるでしょ。近くに激安スーパーもあるし。」
引っ越せば実家から遠くなる。今のように頻繁に母のところに行けなくなってしまう。
「でも、ここなら母の家にも近いし……」
紹子が渋ると、宗則は声を荒げた。
「君もさあ、もう子供じゃないんだから、いいかげんお母さんから卒業したら?とにかく、引っ越しはもう決めたから。ほら、住所はここね。来月には引っ越すから、荷物をまとめておいてね。僕は忙しいんだから。」
宗則はそう言うと、紹子に背を向けた。
紹子は宗則に聞こえないよう、小さくため息をついた。
引っ越し先はこじんまりとしたアパートだった。
部屋が狭くなった分、ずっと家にいると息が詰まりそうだったし、前に住んでいたマンションより壁が薄いせいか、隣の部屋の音も時々聞こえてきた。
そんなに大きな音とは思えなかったが、隣の部屋から物音がするたび、宗則はいらいらして隣室との間の壁を蹴った。
どん!どん!
その音が響くと紹子は怖くて震えた。だが宗則にやめてということもできなかった。なにか言って、あの不機嫌な顔でにらまれるのが怖かった。
紹子は隣の人が静かに過ごしてくれるのをただ祈るしかなかった。
隣の部屋の男が紹子たちの部屋に押しかけてきたこともある。
ある日、宗則がいつものように壁を激しく蹴ると、向こうで激しくドアを叩きつける音がし、男の怒鳴り声が紹子の家の玄関先から聞こえてきた。
「おい!お前!出てこい!」
男の怒鳴り声が響き、紹子はおろおろして宗則を見たが、宗則は素知らぬ顔でヘッドフォンをつけ、リビングのソファから動こうともしなかった。
隣の男がどういう生活をしているのかわからなかったが、紹子は昼間に家に一人でいるのが怖くなった。
近くには何もない住宅地だったから、近所に一軒だけある激安スーパーに紹子は毎日通うようになった。明るいスーパーの中でにぎやかに流れる音楽を聴いていると、少しだけ心が救われる気がした。
スーパーの中を毎日ぐるぐる歩き回って、何も買わないわけにもいかない。
毎日の食事用の食品のほかに、お菓子や日用品、ハンドクリームやペンなど
ちょっとしたものを買うことも増えた。どれも安いものばかりだったが、そうした買い物をしていると少しだけ不安な気持ちが紛れるような気がした。
だが、家の中にちょっとしたものが増えていく。そのことに宗則が気づかないはずはなかった。
「これ?なに?」
ある日、宗則は冷蔵庫の中のシュークリームを見つけて言った。あの激安スーパーで買った98円のシュークリームだった。
「ちょ、ちょっと甘いものが食べたくなって。」
「ふーん、そう。」
「安かったの。たった98円……」
紹子は慌てて言ったが、宗則は不愉快そうに眉を片方あげて言った。
「結局、お金が貯まらないのってさあ、こういう無駄遣いの積み重ねなんだろうなあ。」
宗則はシュークリームの袋を片手で持ち上げながら言った。
「ごめんなさい。」
紹子が謝ると宗則は口元だけで笑顔を作って言った。
「別に構わないよ。紹子だって、そりゃあ、時にはこういうことあるよね。これから気を付ければいいんだから。」
「はい……」
「ね?」
紹子は唇を嚙み締めた。宗則の目は笑っていなかった。
次の日から、宗則の財布チェックが始まった。
「はい、財布出して。」
紹子は最初宗則が何を言っているのかわからなかった。それまでは、一応
紹子が家計簿をつけていたし、きちんと限られた予算でやりくりしていることも宗則は知っているはずだったのに。
宗則は紹子の財布を開けるとレシートを取り出した。そして、ひとつひとつ内容をチェックしていく。その内容をパソコンで家計簿に入力していくのも宗則の役割になった。
入力が終わると宗則は紹子の目の前でレシートをハサミで刻んでいく。
ジョリジョリ…
してもいないカンニングを疑われるんじゃないかと脅えている受験生のように、紹子は姿勢を正してハサミを動かす宗則を見ていた。
「これ、今日買う必要あった?あまり安くないよね?だいたい、今日はあそこのスーパー、特売日じゃないでしょ。行く必要あったの?」
「ごめんなさい。」
「はい、これも無駄!」
宗則の納得のいく買い物ができていないと、ハサミを動かす音が大きくなった。
シャリシャリシャリ。
自分の身が削られるようだ。紹子はそれからスーパーの特売日以外は家から出られなくなった。
隣の部屋の男と、宗則の壁越しの攻防もまだ続いていた。
一度、階下のゴミ捨て場に行こうと部屋を出たとき、玄関先で隣の部屋の男とバッタリ出くわしたことがある。
驚いて固まってしまった紹子に男は言った。
「あんたんちのだんな、狂ってるよね。」
男はやれやれと言うように首を軽く振って歩いて行った。
紹子は何も言えなかった。
ある日、珍しく宗則は上機嫌で帰ってきた。
「ほら、これお土産。会社の人にもらったんだ。」
宗則の手には鮮やかな色のジェリービーンズがあった。会社の人のアメリカ土産だと言った。
「前さ、アメリカに旅行した時に、これ、よく食べてたんだよね。懐かしい。ほら、色もきれいだろ?いろんな色があってそれぞれ味も違うんだ。」
「ほんと、きれい。かわいい。」
紹子が言うと、宗則は満足げにうなづいた。
「ほら、紹子も食べて。」
「うん、おいしい。」
「うん、おいしいだろ?最近、日本ではあまり売ってるのを見かけなかったからさ、なんかこれ食べたの、久しぶりだな。これこれ、このメーカーのが好きなんだよね。」
宗則はご機嫌だった。
外向けだけだった宗則の笑顔が、今は自分にも向けられてる。
昔に戻ったみたい……紹子は、宗則の笑顔を見ていると胸が締め付けられるくらいうれしかった。
事件が起きたのはそれからほんの一か月ほどたったころだった。
いつものように特売日に近所のスーパーに出かけると、輸入食品フェアーと書かれたポップがあり、普段は見かけないいろいろな食品が並んでいた。
そしてそこにジェリービーンズが売ってあった。
「え?」
紹子の胸は浮き立った。これを買って帰れば宗則が喜ぶかもしれない。
宗則の嬉しそうな顔を思い浮かべて紹子はうきうきした。
このところ、紹子の外出先は近所のこの激安スーパーだけ、それも週に一回の特売日だけと決まっていた。今日はその週にたった一度の外出日。
このタイミングで買えるなんて。
紹子は迷わずそのジェリービーンズの袋をレジかごに入れた。
はしゃいだ気持ちで宗則の帰りを待ったのに、ジェリービーンズを見た宗則は苦虫を嚙みつぶしたような顔をして紹子を見た。
「どうしたの?これ。」
想像とは違う宗則の反応に戸惑いながらも、紹子はこのジェリービーンズは
あの激安スーパーで買ったのだと告げた。
「こんなものわざわざ買ったの?」
「え、あの、でも、その、あなたが好きだと思って。」
「はあ。」
宗則はあきれ果てたように、大きなため息をついた。
紹子は何が起きたかわからなかった。
「違うでしょ。これ。」
「え?」
宗則は乱雑にジェリービーンズの袋を紹子のほうに突き付けた。
「僕が好きなジェリービーンズとはさ、メーカーが違うんだよ。」
「え?」
「何にもわからないのにこんなの買ってきて。馬鹿じゃないの?ほんとに。僕が苦労して外で働いて稼いできたお金を、こんな無駄なものに使って。」
「ごめんなさい。」
紹子は震えるように小さい声で言った。
「ほらっ!」
「え?」
「早くレシートを出して。ほかにまた無駄なものとか買ってるんじゃないの?まったく。僕がチェックしてないとすぐにこうしてろくでもないことをするんだから。ほら、早く。レシート!」
宗則はジェリービーンズの袋を汚いものでも触るように指先でつまみ、
紹子の前で振りながら言った。
その瞬間、ぷちっと紹子の中で何かが切れた。
いつも宗則がレシートを切り刻むハサミを紹子は手に取った。
そして宗則が手にしているジェリービーンズの袋を、勢いよく切り刻んだ。
シャリシャリシャリシャリッ
袋は縦横無尽に切り刻まれ、中のジェリービーンズが飛び散った。
ハサミは宗則の指先ぎりぎりのところをかすめ、宗則は唖然としたまま動かなかった。言葉も失っていた。
飛び散った色とりどりのジェリービーンズは、そのまま床に散らばった。
ピンク、スカイブルー、レモンイエロー、ライトグリーン……
床が鮮やかに彩られていく。
宗則の顔は恐怖で引きつっていた。その顔を見て紹子は何だかおかしくなった。私は今までいったい何を恐れていたんだろう。
「ああ、本当にきれいね。これ。」
紹子はハサミを手にしたまま、にっこりと宗則に微笑んだ。
宗則との離婚話は拍子抜けするくらいあっさりと進んだ。
いったい今まで何にしがみついていたのか。何に縛られていたのか。
紹子は自分でもわからなかった。
ひとりになった紹子はしばらく実家で骨休めをした後、キャリアコンサルタント養成の専門学校に通った。それを選んだのは講座内容が人生を見つめなおしたい自分にぴったりだと思ったからだった。講座終了後に資格試験にも受かることができ、紹子はキャリアコンサルタントの職を得た。
相談者と話していると、皆いろいろな思い込みにとらわれているんだなぁと感じることが多い。まるで昔の自分みたいだ。それは自分で自分にかけてしまった呪いのような暗示なのかもしれないし、考えることや決めることを他人任せにしたために、相手の顔色ばかり窺うようになってしまったから生まれた呪縛なのかもしれなかった。
そんなもの、意外と簡単に解き放たれるかもしれないのに……
コンサルタントとしてはまだまだ新米だが、自分には相談者に伝えられる思いがある。それが今の紹子を支えている。回り道してやっと自分で気付いたものだから。
地下鉄のコンコースは今日も多くの人が行き交っていた。
紹子はその人混みの中を少し背筋を伸ばして軽やかに歩いて行った。