日本三種の神器の精神的役割
歴史の授業で学ぶ、日本の三種の神器。
剣と勾玉と鏡。
正確には「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」「八咫鏡(やたのかがみ)」の三つです。
代々天皇様が受け継いでいるといわれている秘宝で、天皇様すらその姿はみたことがない、神秘に包まれている三種の神器。
まつりごと(神様と人とが交わる行事)で用いられる装飾品、と捉えられていますが、カタカムナを実践・内容を読んでいくうちに、単なる装飾品ではなく、精神的な役割や意味が込められているのでは?と思い始めました。
正しいかはわかりません。でもこの三つの秘宝が、日本の象徴たる天皇様が代々受け継いでいるということからも、日本人の精神として忘れるんじゃないぞ、というメッセージなのだと確信しています。
三種の神器は神様を降ろす精神状態を表す
見出しのとおりです。
私は、大学では幼児教育を専攻していたんですが、そこの先生が言っていた言葉が印象に残ってます。
形霊(かただま)にも通じる考え方ですよね。
世にある道具は、もれなく人が作り出しました。
だからその道具には必ず個々の目的があり、使うことに特化した形をしています。
三種の神器も同じなのではないか、と。
ひろの式カタカムナに触れることで、確信に変わりました。
祭り、神様との交流で用いられる道具というのもピンとくる要素です。
日本人は、古来からずっと、神様を隣人として接してきた民族なんだと強く感じます。
三種の神器は、自分のそばに、自分の内側に神様を宿す、心の在り方を示しているのだと私が感じている理由を、これから説明しますね。
ただし繰り返しますが、私がピンときているだけで、これが真実ではないかもしれない、ただの思いつきである可能性が高いので、頭から信じないようにお気をつけくださいね。
八尺瓊勾玉の意味
まず、やさかにのまがたま。やさかには、めちゃくちゃでかいよ!って意味で確たる大きさはよくわかりません。「御伽草子」というアニメでは、大人が小脇に抱えるセカンドバックくらいの大きさの勾玉が出てきましたが、あのイメージでしょうか。
歴史の教科書なんかは「胎児の形を表していると考えられている」なんて説明がされている勾玉。
でもあの形、見覚えがないですか?
☯←この形がまさしく勾玉じゃないでしょうか。
陰陽師のマーク、あるいはタイチー、中国のマークという印象ですね。
調べると、家紋的には、伊賀忍者の紋という説も出てきました。
犬夜叉のアニメの初代ED曲のサビで、観覧車に重なるように、この陰陽の図がくるくる回っているのをみた覚えがあります。この図は、回って廻るものなんです。
白は光、黒は影。光極まりて影となり、影極まりて光となる。光の方にも小さい影を内包していて、影にも小さい光が入っている。
昼と夜、男と女、神あるいは天使と悪魔、実体と追従する影。
そういう、切り離せない相対する2つ。世界は光と闇で成り立っている、というのが陰陽五行思想の考え方です。世界は光だけでも、影だけでもない。
今の我々の世界は、物質優位な考えが強いです。
「見えるものは在る、見えないものは無い。触れられるものは在る、触れられないものは無い」という考え方。
しかし、日本人は夏になると必ず心霊映像、写真、怪談をしてゾ〜っとしますよね。
あれは、夏の暑さを血の気が引くことで涼しさを感じよう、という目的もありますが、
「忘れるなよ。亡くなったからといって消えて無くなった訳じゃないぞ。幽霊や妖怪といった我々には見えていない存在も居るぞ。そういった者たちへの礼節も忘れるなよ」という意識が感じられてなりません。
亡くなった人を氏神様として祀ります。
長く使った道具(10年くらいの単位?)には魂が宿り動き出す付喪神となる。
心霊スポットで何かをみたり聞いたり、清めの儀式を忘れたり意図的にやらずに家に連れ帰ってしまって不思議で怖い体験をする…。
↑犬夜叉の一期エンディング映像。
該当部分のサビの部分から再生されるように設定したので、20秒だけお付き合いください。
そう、見えないけれどあるんですよ。幽霊や妖怪や怨霊や神様という存在は。
勾玉という形は、それ単体の実体だけでは完結しないんです。欠けてるんです。
古代中国でも、円あるいは球体が完璧な形っていうじゃないですか。神聖幾何学においても、完璧な形は球体です。
勾玉の反対側に、逆さになった、ピッタリ合う形が、見えないけれど本当は存在しているんです。
勾玉は、その見えない存在が、貴方にもついていますよ、ということを表しています。
草薙剣の意味
次に剣、つるぎです。草を薙ぐつるぎ。
神話でも、迫りくる炎に燃える草原を薙ぎ払って難を逃れた、とあります。
この剣の意味するところは、空き霊をつくる、です。
人は、感情の波に振り回されます。
嬉しい楽しい、怒り、悲しみ、絶望…etc.
その度に心が乱れ、その出来事しか見えなくなるくらい視界が狭くなります。
その感情を俯瞰して見る、感情にいちいち反応しない、そうかそういう感情を感じてるのか、と外から見るイメージです。
感情を断ち切る。
感情という伸びた草木でいっぱいの心に一閃、刃を薙いで、伸びた草木を一直線に切りそろえる。
感情を心から出し、切り離し、心に空きを作る。
そこに光を、神様を入れる。
あるいは、別名で「天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)」というものもあります。
これは、空を覆った雲を薙ぎ払い、晴れにするイメージですね。太陽=日本神話ではアマテラス様、神様です。神様を見えなくしている雲、つまり迷いを晴らすこと。迷いを迷いと思い込まず、その奥に隠された太陽・神様を信じること。
心に、空き、隙間を作る。
それが、精神面における、つるぎの役割です。
八咫鏡の意味
ヤタノカガミ。ドラクエならラーの鑑ですね。
装飾部分ばかりが資料として写されていますが、裏はピカピカに磨かれている鏡面。そっち側が儀式でも大事です。神社でアマテラス大神さまを祭っている場所だと、祭壇にピカピカの円形の鏡が鎮座していますね。
これは有名なのでご存知の方も多いかと思います。鏡(かがみ)から、我(が)を抜くと、神になる。
かがみ−が=かみ
となるわけです。
つまり、「我を抜く」んです。空き霊にも通じる考え方ですね。
「がんばる」という言葉は「我を張る」という言葉からなまった言い方だそうです。
神様を降ろすには、がんばる必要はないんです。むしろ力を抜いて、自分を手放して、空っぽになる。
その空っぽに、空いた隙間に神様を降ろす。
鏡は、自分を抜いた姿は神様そのものであると再認識する役割を持っています。
まとめ
勾玉の「世界は見えてるものだけで完結しておらず、陰と陽、見える世界も見えない世界もこの世界は内包している」ことを。
剣は「感情を、自我を切り離す。そして自分の心ないし魂に空きをつくる」ことを。
鏡は「皆、神様の分けた身であった。今持っている自我を手放せばそれは神様である」ことを、それぞれ表していると私は考えています。
つまり神様っていう存在は、空の上のめちゃくちゃ遠いところに居る、のではなく、自分の内側に実は存在していて、今は自我が強くて見えていないだけ、ということです。
昔の言葉などでも「他人は自分を写す鏡である」とか「お客様は神様だ」とか、「ひとのふり見て我がふり直せ」とかありますね。おそらく真実なんだろうなと私は感じています。
日本における三種の神器は、単なる儀式の道具ではなく、日本人の精神に「神様の存在は近くにあるから忘れるんじゃないぞ」と示している。
ひろの式カタカムナをやって、より一層強く感じました。
■追記 2024.0627
勾玉について、占い師をやってらしてる方からこういった発言がありました。
縄文の頃の勾玉は、確かに子どもをかたどっているように見えますし、見慣れているのは右のツヤツヤデフォルメされた勾玉だなぁと。
勾玉の項目は、もしかしたらもう少し違う意味が込められているのかもしれません。
■追記2024.0701
さとうみつろうさんのyoutubeチャンネルの動画を見ていると見つけました。三種の神器の剣は「草薙の剣」ではなく、「八重垣の剣」であったと。
であれば、剣も鏡も勾玉にも、八という数字が入っていることになります。
この動画でも説明されてますが、8は特殊な数字で、別の所で「人生は八回でクリアらしい」(確か2チャンネルのまとめ)という話もあったりするので、それも隠されていた可能性がありますね。