夢想と孤独について

今学期、すごく好きだった授業があった。いくつかの文学作品に触れて、幸福について考える、というのが授業のテーマ。そして一回目の授業の後に、書いたメモがこれ。

“しあわせはヨーグルトの中の砂糖と同じ。目には見えないのに、甘さはわかる。どれくらい入っているのか、どれだけ食べたのか、なにもわからないまま。気づけば器は空になる。”



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いま読み返すと、なんて孤独なんだろうと思うし、甘ったるい。ドリーミーすぎるよと自分に言いたい。

夢想的なものには、常に孤独が垣間見えると思う。それはきっと、私たちがみんな、頭の中ではひとりだから。他者に囲まれた現実世界から、ずっと離れた反対側に、幻想や空想は孤独な空間を作り出す。

キャサリン・マンスフィールドの作品を読んだことがあるだろうか。恥ずかしながら、私はこれまで名前すら聞いたことがなかった。最近 “Miss Brill”という短編にすっかり心を奪われて、いくつか他の作品も読んでいるところだ。ニュージーランド出身の作家で、短編小説の基礎を築いたといわれる彼女。少しの感情の機微も見逃さない、その視線を想像しては、すごく孤独な人なんだろうなと思う。垣間見えたのはやっぱり、かなしみ、不安、嫌悪と幻滅。夢想的なものには、常に孤独が付き纏っていると思う。それはおそらく、私たちが頭の中では一人きりで、孤独な存在に過ぎないからだろう。幻想や空想が作り出す孤独な空間は、他者を含む現実世界から、ずっとずっと離れたところにあるように感じる。


すごく悲観的になってしまったけれど、今の私にとっての幸せとは、まず他者と対話することから始まる。そうやって誰かと関わることで、頭の中という、孤独な部屋から抜け出すことができる。現実の世界を見て、愛や芸術などの美しさに価値を見出す。それらは間違いなく自分が感じたことであり、かけがえのない自分が、実際に触れて得たもの。そうやって自分を認め、その存在を肯定することこそが、幸せではないだろうか。“Miss Brill”の物語の中で、彼女は若者から心ない言葉を浴びせられる。(読んでほしいので、詳しく書くことは避けます)でも、本当の悲しみはそこではなくて、彼女が空想の世界でしか人と関われないことだと思った。

揺らぐことのない自己を持てるのなら、その夢想の中だけで幸福を見つけることは可能かもしれない。それでも、私たちは弱い。弱すぎる。人と比べてしまうし、目に見えるものが欲しいし、ありのまま生きるなんて自信がない。だから確固たる自己を持つことなんて、本当の意味ではできないのでは、といつも思う。自分という存在を認めるには、肯定してくれる誰かが必要。もう、いつまでひとりでいる気だよ、と思う。早く外に出なければ。朝起きてすぐにカーテンを開けないと。声が、だれかの体に跳ね返されて、自分の耳に戻ってくる。そういうのが必要。もっと、もっともっと必要。

逃げるな、と思う。きのうは逃げると言ったけど、逃げなくていい。

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