犬山まちづくり自主学校(第3期)第4回「あったらいいなワークショップ」学校のなかの対等性を保つには?(続き)
あったらいいなワークショップ。タイムアップとなりましたが、その後も時間のある人たちで「学校のなかで対等性を保ちたい!」という課題について、さらに話を続けます。
前半で話した内容
前半で話した内容のおさらいです。
▶︎最終ゴールは「人々が対等になること」
▶︎Stage1
前提:対等であるためには、相手を尊重する必要がある
▶︎Stage2
提案:先生、生徒、保護者の三者会議をやってみる。
▶︎Stage3
分析:相手側の土俵に立ち、どうやったら理解、納得してもらえるか考える。
理想のイメージを共有できるように伝える
もえさんは続けてこう説明します。
「こどもにさやえんどうのさやをむいてと言ってもわからない。ここをこうやってむいてと伝えないとむけない。私たちにとっては対話の場はこういうものという共有ができているかもしれないけど、先生が考える対話とは違っているかもしれない。ドーナツと言っても揚げドーナツをイメージする人とポンデリングの人がいたら違うよね。そこを同じイメージができるように説明する必要があるだろう。」
それに対しこんな話が中学生から出てきます。
「でも、それってこどもが先生に教えないといけないこと?
生徒からはもともと対等じゃないから言いづらい。そして、すでにみんなの意見をまとめて先生に文書で提出したこともあるけど、個別に先生の気持ちを伝えてはくれても、学校の問題としては取り組んでくれなかった。あるいは取り組んでくれたのかもしれないけど、その結果を学校全体の問題として、他の生徒たちに対しては共有してもらえなかった。投書箱に入れたり、先生やカウンセリングの先生に話しても何も変わるようには思えない。」
それに対してもえさんはこう伝えます。
「先生にどうやったら気づいてもらえるか。それをこどもが言わないといけないというのはすごく大変。こどもは言いにくい、そこにはものすごく大きな上下関係があるということを、先生は軽視している。それは私たち大人が伝えていくべきところかもしれない。
たとえば今話したことをぜんぶ録音して要約筆記すればいい。生徒からは成績下げられるかもって思って言えないんですと、なぜ生徒や保護者はダイレクトに言えないのか。保護者はお世話になってるし、遠慮があって言えないという心の声を言語化していいんです。どうして言いにくいのかを誰かが届けないといけない。全部分解していって届けてあげると、そうだったの、それはごめんごめん言いにくかったんだねと、気づいてくれるかもしれない。
私も夫やこどもにダメ出しするときに傷つかないように説明をつけるけど、私たちは相手を気遣ったり、察したりして、言いたい言葉をぐっとこらえてしまう。立場が弱かったり、相手を思い遣れる側がこらえて、権力があったり、図々しい方が自由に言える。何かを伝えるときに、これ言ったら悪いかなと遠慮してしまうけど、それはあなたの人格を傷つけたり否定する気持ちはなく、この「事」について言っているんだと自分はゆるがず、自分はこどもたちの環境のために言っているわけで、先生を属人的に非難しているわけではない、先生は嫌いじゃないよ、と言ってあげると言いやすくなるかもしれない。
そして、その時に目指すゴールもしっかり伝える。私たちは個人の傷つきからスタートして課題に向き合えたということがあるかもしれないけど、目の前の私のために言っているのではなく、こういう社会を目指しているから。真正面から相手に何かを突きつけるのではなく、横顔目線で相手と一緒に横のゴールを見て、そこを目指す仲間として話をする。」
伝える際のいくつかの心構えがここにはあります。
俯瞰して考える
そして、もえさんはさらに目線を上にあげて考えるポイントも伝えます。
「世の中はコミュニティがどんどん大きくなって社会になっている。校長先生はその学校のボス。その校長先生のコミュニティが校長会や教育委員会。もしその学校内で解決できない問題があったとしたら、教育委員会に話をもっていくという方法もある。◯◯学校でこういう声を届けたけれど、その声を聞いてどういうふうに学校で検討されたのか、もしくは先生が読んで終わりだったのかとかフィードバックが欲しいと伝えてみる。
それをこどもに背負わせる必要はない。この自主学校一同でも、有志でも、保護者でも、隣のおばちゃんでも、この話を知った大人でもいい。誰でもどんな肩書きでもいい。
ただし、必ず本人の同意を得てから。私たちはこんな形で動きたいんだけどいいですか?と聞いて当事者の同意を得たら動けばいい。動き方としては、せっかくこどもたちが届けた声がどう扱われたか教えてくださいでいい。
要は学校に声を届けるのもダメ出しをしたいわけじゃない。今後のために、この声がどう使われるのか教えて欲しいという風に、現状が1mmも変わらなくても、せめてやった行動がどんな風に使ってもらえたかはやったものとして知りたいです、というところからやってみるという方法もある。」
当事者の初動負荷が大きすぎる:クレーマーと思われないか
でも、いちいちそんなことを伝えていると、うるさい親だな、クレーマーだなと思われそう。それに声を伝えるというのはとてもパワーがいる仕事。上にあげて「公」にしていった方が注目されることもあるけど、こどものために声を届ける親も当事者側になって動くのってしんどくて辛い。声をあげる当事者に負担がかかりすぎるのではなく、もっと違う手はないのだろうか。
という意見も出てきます。
それに対し、もえさんはこんな風に話します。
「変えてもらおうというのではなく、とりあえず投げてみることからはじめてみては。もしかすると相手や仕組みを変える前に、自分が一歩自分を変える、声をあげるというのにトライするということかもしれない。
先生を責めてるんじゃないし、立ち会った大人としてこどもの気持ちを知って、これを見過ごしたら自分が許せないから、自己満足かもしれないけれど、聞いて欲しいみたいな伝え方で。なんとかして、まずはボールを投げてみる。豪速球じゃなくて、ふんわりした綿を投げるみたいに投げてみる。
たとえば何かを伝えようとする時に、「対等な場づくり」となると話の解像度が大きい。話のなかでも出ていた、体育の時間、男子は自分の教室で着替えられて動かなくていいのに、女子は移動して合同で一つの部屋を分け合って着替えなければいけないというこどもの声の具体例をまずは先生に伝えてみるというのも一つの方法。
大きな課題を大きなところに届けるのも大事だけど、具体的な声を一つずつ解決してもらおうとするのもありかな。男女で出かけたことをデートと言わないで、と先生にも伝えてあげると、少なくとも次からは男女をデートと言わないという具体例を先生が蓄えられる。
対等にとか尊厳を、という抽象的な言葉にすると、やってますという話になってしまうので、先生はやっているつもりかもしれないけれど、こういう現状があるよという風に一つずつ解決してもらうようなボールの投げ方もあるかな。そうした問題が100個あったら100回言わないといけないのではなくて、3個言ったら後は変わったということもある。
初動負荷の問題は、当事者の側で思いがあればあるほど大変になってくる。気づいた人が負荷を負わないといけないということは確かにあるけど、なんで私がやらないといけないの、と不満に思っているうちはやらなくていい。私がやらねばと思ったときにやればいい。やれる余裕がなければやれないし、思いもないとやれない。がんばって背負いすぎる必要もないけれど、気づいたことを何とかしたいなと思ったら、自分だけのサイズで試してみる。やった結果すぐには何も変わらなくても、そのときに頑張ったことは筋トレになって血肉になるから頑張ろうということかな。」
Better than nothing.
もえさんに「そうやって言葉を届け続け、社会の仕組みを変えていこうと思い続けられる原動力はどこにあるのか」と聞いてみたところ、こんな返事が返ってきました。
「仕事があって、帰れる家があって、ご飯が食べられて、爆弾が降ってこない国にこの時代に暮らしていてという土台があるからかな。それを言ってる余裕がないくらいの状況だと言うことすらできないけど、それができる時間があるから。
まちづくりが仕事になるというのはとても魅力的なこと。自分が気づいたことを仕組み化していく。一日中こんなことを考えていて、報酬をもらいながら仕事させてもらってる。いっぱい壁にもあたるけど。」
最後にもえさんからこんな言葉が贈られます。
まずは自分サイズのできることを声にして届けてみる。
学校での対等性を求める生徒たち当事者の声を聞いた私たちは、一体何ができるでしょうか。
みんなの社会部でも引き続き考えていきたいと思います。
3時間の予定が4時間近くまで対話が続いた「あったらいいなワークショップ」。
今年度のまちづくり自主学校はこれで終了です。
最後の締めくくりにふさわしい、とても充実した対話になったと思います。
講師のもえさん、参加者のみなさん、ありがとうございました。