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だから、僕は盗んだ

前置き

ヨルシカのコンセプトアルバム「盗作」について思ったことを書いていきます。多くはないですが、一部小説の内容に言及しているためネタバレを含みます。注意してください。
また、断定するような書き方をしている箇所が多いですが、全て個人の感想です。考察に正解がある作品ではないと思っていますので、悪しからず。

「盗作」の構成について

アルバム「盗作」は130ページ程度の小説と14の楽曲から成る。
この文章と楽曲という形式は、前作「だから僕は音楽を辞めた」と「エルマ」でも同様だったが、今回はそれらとは少し違う点もある。「だから僕は音楽を辞めた」と「エルマ」では収録楽曲が物語の主人公たち、つまりエイミーとエルマによって作られたかのように思わせる示唆があった。それは歌詞が木箱の中の手紙の一部として封入されていたり、日記の中の途中のページに歌詞が挟まっていたり、といった演出からもうかがえるし、ノーチラスのMV内にエイミーが書いたであろうノーチラスの歌詞が載った紙切れが写っていることからもわかる。簡単に言ってしまえば、楽曲が物語の中に内包されていたのだ。楽曲と物語が同一世界に存在するという言い方でもいいかもしれない。

一方、今回のアルバム「盗作」では少し事情が異なる。小説「盗作」の主人公の男もエイミー同様音楽を作る。しかし、作品至上主義だったエイミーと違って、「盗作」の男は「自分のことを書いてやる、歌ってやる」という気概のようなものが欠けているように見える。だから、この男が「嗚呼、まだ足りない。全部足りない。
何一つも満たされない。」のような直情的な詞を書くようには思えない。
その違和感を裏付けるように、先日公開されたn-bunaさんのインタビューにはこう書いてあった。

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https://sp.universal-music.co.jp/yorushika/tousaku より

今回の楽曲たちは、物語の外側から、小説とは別の角度で物語を切り取ったものなのだ。物語内に存在する楽曲たちを直接観測していた前作と違って、今作の楽曲は物語を見るスコープ的な役割を担っている。

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これを踏まえて内容について見ていく。

盗作という概念について

さて、作品の構成について整理したところで、今作のコンセプトの内容について考えてみる。
小説「盗作」では主人公の男の半生を描く形で話が進んでいく。ところどころにインデントを下げた、男の自分語りのようなセリフが挟み込まれる。物語の最後でこれは男がある目的を成し遂げて満を辞して受けたインタビューのやりとりであることが明かされる。
男は自身を音楽泥棒と称した。音楽を盗むとはどういうことか。

それはメロディかもしれない。装飾音かもしれない。詩かもしれない。コード、リズムトラック、楽器の編成や音の嗜好なのかもしれない。
           「ヨルシカ - 盗作(OFFICIAL VIDEO)」の概要欄より

ここでの「盗む」の意味はかなり広い。メロディや装飾音、詩まではわかる。これらは盗みが露見することで世間からバッシングを受ける対象に十分なりうるものだ。しかし、コード、リズムトラック、編成、嗜好などはどうだろう。これらについて何か過去の作品と同一のものを使用したとして、問題になるのだろうか。答えは限りなくノーに近いと感じる。少なくとも、カノン進行を使っているという理由でパクリだ、盗用だ、と叩かれている楽曲を自分は見たことがない。
「盗む」の反対は「盗まない」、つまりは「オリジナルである」ということだろう。「盗作」と「オリジナル作品」の境目はどこにあるのか。概要欄にはこう書いてある。

客観的な事実だけなら、現代の音楽作品は一つ残らず全てが盗作だ。意図的か非意図的かなど心持ちでしかない。

極論だ。しかし間違っていると否定することは決してできない。
そして実は、同時にこうも言える。
「現代の音楽作品は一つ残らず全てがオリジナル作品だ。」
これまた先ほどと反対側の極論だが、否定することはできない。メロディ、リズム、音色、何一つとして既存作品と変わらない音楽を作ることは(デジタルデータをコピーするといったチープな方法を除いて)不可能であるということもまた事実なのだ。
音楽作品が盗作かどうかを判断する「客観的な事実」なんてものは実は存在しない。だって「この世の全部は主観なんだから」。「少しでも何かの要素が被ればそれは盗作だ」という出発点自体がそもそも男の(メタに考えればn-bunaさんの)主観なのである。

そう、盗作とオリジナルの境目がどこなのかという問いの正解は存在しない。正解が存在しないから、我々は便宜的に「社会通念」であったり「倫理」であったり、あるいは「法律」で境目を設定している。そしてこの事実は音楽の価値についてある示唆をもたらしている。

「作品のオリジナル性は必ずしも作品の真の価値に直結しない」

人によって異なる曖昧な価値が作品の真の価値に関わらないと考えるのは自然だろう。
例えば、ある曲が意図された盗用作品だったとして、受け取り手が盗用元を知らなければそれはその人にとってオリジナル作品だ。のちにそれが盗作だったことを知ったとき、その人がその曲を初めて聴いたときに感じた感動は偽物になるのかというと、そんなことはない。
あるいは、あらかじめ盗作だと知っていた場合を考えてもいい。盗作だと知っていても、いいものはいいと感じるはずだ。ベートーヴェン以外が引いた「月光」でもそこに価値を感じるのと変わらない。もし盗作を聴いたときに嫌悪感を感じたとしても、それは作品そのものに価値がないことを意味するわけではなく、「盗みは悪いことだ」という倫理観から来るものだろう。

盗んだ、盗んでないなどはただの情報でしかない。本当の価値はそこにない。

これがこの言葉の意味するところだと考える。盗んだかどうかの情報はしばしば倫理観のフィルタを通して感情に変換されるが、それは作品の真の価値を見誤らせるノイズでしかない。

では、その「本当の価値」というものはどこにあるのか。これが小説「盗作」の最大のテーマになっている。男はそれを知るために盗んだのだ。その結末については、ぜひ自身で読んで確かめてほしい。

創作における「盗み」の呪い

ここからの話は僕のことだ。今回の「盗作」を鑑賞して、創作をする上で自分が感じていたある種の呪いに一つの答えを得た気がする、ということを書いていく。

創作をしたことがないという人はいないだろう。それは幼少期のお絵描きかもしれないし、小学生のときの図画工作かもしれない。大人になって書いた小説、描いた絵画、奏でた音楽、切り取った写真、どれもこれも創作だ。

僕は、創作とは、自分の中に持っている経験や思考を何らかの形で外在化させる作業だと思っている。社会に生きている僕らは、他の創作物に少なからず影響を受けて、経験や思考を蓄積する。だから、自分の創作物には多かれ少なかれ必ず既に世に存在する他の創作物の残滓が紛れ込むのだ。僕はこれがずっと呪いのように感じていた。

たまに小説を書くことがある。小説を書いている最中、あるいは書き終えて読み直しているとき、必ずと言っていいほど自己嫌悪に襲われた。「どこかで読んだような展開、文体、テーマばかりだ」。

意図的ではない盗作なのだ、どれもこれも。自分だけが生み出せる、絶対的な作品とは到底思えない、そんなものばかり。これはあの作品の二番煎じだよね、と自分の中の悪魔が囁いてくる。そうしてみるみるうちに創作意欲は減退する。

でも、そうではなかったのだと思う。本当の価値はそこにない。

ただ一聴して、一見して美しいと思った感覚だけが、君の人生にとっての、その作品の価値を決める。
「盗作品」が作品足り得ないなど、誰が決めたのだろう。
俺は泥棒である。

少し前、自分も何か曲を作りたいと急に思い立って、メロディを考えたことがある。
思いつくままに良さそうなメロディを鼻歌で歌って、スマホに録音をした。
記録されたデータを聞き返して笑ってしまった。まんまヨルシカメドレーみたいなメロディだったから。
それでも。鼻歌を歌っているときは本当に楽しかった。録音を聞くと、そこにはやっぱり綺麗で自分の好きなメロディが流れていた。

きっと音楽も小説も、他の創作だって何も変わらない、そういうことなんだと思った。きっと僕らはこれまでに摂取した名作を、自分が美しいと思ったものを、心に溜め込んでいる。そしてそれらを創作という行為を通して自分なりに具現化する。それを盗作だと言うのなら、悪いことなんて何もない。その美しい盗作は、自分の人生にとって間違いなく価値があるものなのだ。
今なら二番煎じだ、盗作だ、と騒ぎ立ててくる心の悪魔にも笑顔でこう返せる気がする。

「そうだよ、盗作だ。自分にとってとびっきり価値のある盗作なんだ。だから、僕は盗んだ」

俺は泥棒である。











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