亡き母と、着物と私と御朱印帳
触れなかった母の遺品
「お好きな生地で、お作りしますよ」
御朱印帳職人さんの、その一言を聞いたとき、ふと、母が着ていた着物のことを思い出しました。
それは、長年収納ケースに無造作に押し込められたまま、屋根裏部屋の片隅に追いやられていました。
いえ、正確に言えば、追いやっていたのは私自身で、ずっとずっと気になりながらも、触ることすらできないまま、22年もの月日が経っていました。
「母が着ていた着物があるんですが…、その生地で作って貰うことは、できますか?…」
1か月後、それは御朱印帳に生まれ変わって、私の元に戻ってきました。
箱を開けると、まるで母の凛とした、あの日の立ち姿そのままで、母の面影とぬくもりが一気によみがえってきて、私は胸がいっぱいになり、涙が止まりませんでした。
両親の最期と私の罪
母、そして父が亡くなってから、気付けば20年も経っていました。
その時私は26才で、事実上、私が2人を見送ったわけですが、正直言ってその頃のことは、あまり記憶にありません。
代わりにあるのは胸が苦しく、締めつけられるような感情で、思い出すと辛いから、余計に形見を見えないところに、追いやっていたのかもしれません。
その感情の正体は、父と母への罪悪感です。
病院を受診したときには、癌はすでに母の全身を蝕んでいて、3ヵ月もつかどうかだと、主治医は私に告げました。
当時、余命宣告は、患者本人にはされないことが一般的でしたので、母に悟られてはなるまいと、私は必死で笑顔で接し「治ったらお家へ帰ろうね」と、嘘をつき続けました。
それゆえ母は「回復が遅れると嫌だから」と、鎮痛剤を拒み続け、癌が骨に転移した頃には、痛みのあまり、ベッドの上でのたうち回って苦しんでいました。
私は見るに見かねて「お母さん、少し眠った方がいいよ」「眠れる薬を点滴して貰おうよ」と説得し、母は涙を浮かべながら小さく静かに頷きました。
それが、私が母と交わした最後の言葉となりました。
癌と分かって2ヵ月で、母はこの世を去りました。
59歳でした。
そして、母亡きあと、父は医者から止められていたお酒を、私に隠れてたくさん飲むようになりました。
私はそのことを知りながら、ほとんど見て見ぬふりをしました。
寂しそうに、背中を丸めてうなだれる父を、たしなめることができませんでした。
もともと悪かった肝臓は急激に悪化し、結果的に私が、父の死期を早めてしまいました。
母が亡くなって9か月後の、桜が散り始めた頃でした。
68歳でした。
私は両親に対し、申し訳ないことをしたと思ってきました。
とくに母は、私のことを許さないのではないかと。
最期まで嘘をつき通した、私を恨んでいるのではないかと…。
私が屋根裏部屋の片隅に、ずっと閉じ込めてきたのは、両親の形見そのものよりも、それらを見るとよみがえる、苦しくて申し訳ない気持ちなのだと思います。
それが、両親の死と、私が向き合えてこなかった理由です。
形見の着物で御朱印帳を作る
突然そう思いついたのは、母の言葉を覚えていたからかもしれません。
「奈緒と一緒にお寺巡りに行きたいなぁ。車であっちこっち連れてってな」
だから私は母の着物で御朱印帳を作りたいと思いました。
母との約束を果たしたら、許してくれるかもしれないなって…
私は手を合わせ、母にこう語りかけます。
《お母さん、ごめんな
お母さん、私が最期についた嘘を、許してくれる?
自分はもう長くはないんやってわかってたら
私らに伝えたかったこと、きっとようさん、あったやろうに…》
《お母さん、ありがとう
家族のために生きてくれた、苦労ばっかしの人生やったね
せやけど本音を言うたらね、私はもっと、甘えたかってん
お母さん、しょっちゅう泣いてたから
私まで心配かけたらあかんと思ってな
ちっちゃいときからずっとずっと、甘えたいのん、我慢してたんよ》
《お母さん
お母さん
お母さん…
治る病気やよって嘘ついて、ごめんなさい
言いたいことも言われへんまま、最後に薬で眠らせてしもて、
ほんまにほんまに、ごめんなさい》
《お母さん、さみしいよ…
お母さん、会いたいよ…》
母は御朱印帳となって、私のところに帰ってきました。
20年経ってやっと母に向き合えた…
遺品は整理するものでなく、自分の心に刻みつつ、手放していくものだとつくづく思います。
《お母さん、ありがとう…
お母さん、会いたいよ…》
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