小骨と忘却
いつの日か投げかけられた言葉は、思ったよりも長い間胸に刻まれているものだ。何かの詩や台詞だったり、知人にかけられた一声だったり、人伝に聞いた噂話だったりと、内容や悪意の有無に関係なく、自分にとって心に残すに値すると感じた一節は、長い間しっとりと心に残り続ける。中でも特に強く、刺青のように残り続けるのはやはり、幼い頃に見聞きした言葉だろう。
幼稚園生だった私は、生き物が死ぬと星が増えると思っていたし、地面を掘ればどこでも温泉が湧くと思っていたし、サンタクロースはみかんが好きだと思っていた。クリスマスイブの夜、姉が手紙の横にみかんを供え、我が家のサンタが皮だけ残して去っていったことなど、数十年前の数十秒にも満たない一場面なのだが、なにやら筆記体の返事をもらえた姉の喜びようとか、ニヤつきながら「サンタさんはみかんが好きなんだねえ」などと適当な冗談を言う父の姿とか、案外覚えているものである。あの頃は周囲の人が言うこと、本に書いてあるものは全て、真実だと信じて疑わなかった。夢のある物語や伝説は、かつて世界のどこかで起こった、キラキラした誰かの生涯の一欠片だと本気で思っていた。
しかし人間は、十数年の歳月をかけて知識を身につけ、手にした情報の真贋を判定する力を身につける。一日に何千何万もの星が生まれ続けるわけはないし、水のないところから湯が湧くわけはないし、サンタの故郷ではみかんは育たない。北国でみかんが育たないからこそ、温暖な国に来てみかんが大好物になったという、どら焼きを愛するドラえもんのようなパターンの可能性はまだ拭い切れないが、話の大半はどこかで「あれは間違っていたのかな」と疑うタイミングがやってくる。深く信じていたものがある時急に覆されるのは「嫌なこと」ことだ。それが深く、強く信じていたものであるほどに。
「嫌なこと」に対面した時、私は極力その事実ごと記憶から抹消しようとする。毎日通っていた幼稚園がどこに建っていたのか思い出せないのと同じように、時間が経てば記憶がなくなるのなら、「嫌なこと」の記憶も徐々に消えていくはずだと、昨日の続きをいつも通りに過ごすように努めている。
しかし、どうしても掻き消すことができない記憶もしばしばある。お気に入りのマグカップを割ってしまったこととか、大好きなアイドルが解散してしまったこととか、疎遠になってしまった友人との思い出とか。もともと好きだったもの、思い入れのあったものが一転して「嫌なこと」に姿を変えると、それは喉に閊えた小骨のように、頭の片隅に刺さり続ける。些細なきっかけで何度も過去を思い出し、ひとつの出来事が長期にわたって私を苦しめることもある。魚の小骨を取り除くのならピンセットで引き抜くのが一番早いだろうが、精神的問題は物理的治療が存在しないのが厄介なところだ。
酒を飲むとそういったことが忘れられるから、大学時代はたいそう強い酒を呷るようになった。ストロングな酎ハイよりも、数十パーセントのウイスキーのほうが手軽に酔えて楽だったのだ。これを書いている今も、手元にはブランデーがある。つまり今は嫌なことを抱えているということになるのだが、とりあえず生きているので問題ない気もしている。そういえば、電気代を振り込まなければならない。通勤定期券も更新しなければならないし、尽きそうな米もストックしなければ。はて、財布にはいくら入っていたか。それにしても、やはりラガヴーリンはいつ飲んでも美味だ。あっという間に12月を迎え、寒気がよし来たと言わんばかりに窓から忍び込んでいる。根拠はないけれど全てが、なるようになるだろう。アルコールでうまく頭が回っていないので、ここらでいったん筆を折る。