阿弥陀で破れたゆめ
高校、大学の進路をおれの家ではなぜか阿弥陀で決めた。公務員の父と真面目で控えめな母、博打うちではない。なのになぜそんなことになったのだったか。そして、なぜおれはその決定を受け入れることができたのか。
高校の場合でいうと、父母おれ3人の希望する高校が違った。父はより高みを目指してほしいようで進学コースのある私立高校2校を推薦。母は家からバスで通える公立高校、おれは家を出て寮から通う私立大学附属の高校。大学で東京に出るためには、まずは田舎から少しステップアップしなければ!
さて阿弥陀籤、どこに決まっても誰も文句なし。広告の裏に書いた縦線に、みんなで横線を足していく。兄はもう家を出ていたので参加せず。
「ニコもう一本足していいよ」
そう父に言われて足した一本がトラップだったのか? 結局自分で選んだスタートの先に待っていたのは家からバスで通える公立高校(母希望校)。私立のオシャレな制服も、寮生活もなし。えーー残念! とその時は思ったけれど、入試前に母の癌の手術があったこと、そしてその後も度々入院することになったこと、などなど後から考えると、どの学校とかより家を出なくてよかったなと心から思う。
大学進学の時もほぼ同じ。県内の私大、国立、そして東京の私大! とまた3人で阿弥陀籤。なんか叶わない気がしながら選んだ一本は推薦を狙える県内の私立大学に。ふへー東京進出叶わず! ちょっと泣く。そして集めに集めた大学の資料を全部捨てた。どちらも希望通りではなかったけれど、ああおれはここに進むんだな、と結局は納得することができた。
大学2年の時、再発が分かり母の通院、入院、仮退院、そしてまた入院、という日々が始まった。阿弥陀で決まった大学の2つのキャンパスに通いやすいよう借りたアパートが偶然病院のすぐ近くだった。ので、学校帰りにもバイト前にもよく母の病室に入り浸った。そしておれのアパートが母の仮退院や外出の時の仮住まいにもなった。
早く実家を出て都会で暮らしたいと願ったおれはもうそこにはおらず、隙あらば母の病室に行き、おやつを食べたり試験勉強したり、母の夕食を代わりに食べたり、食堂でカレーうどんを2人で食べたり。とにかくよく遊びに行った。花火大会の日には、浴衣の着付けをしてもらいに行って、病室のみんなから歓声が上がったりして。
いま母の入院生活を思うと、具合悪そうな顔が思い出せない。お見舞いという感じも薄かったような。眠り続けているということも最期の方までほとんどなかった気がする。いつも、おー、きた! と喜んでくれて、ばあちゃんの差し入れを一緒に食べたり試験勉強を手伝ってくれたりニコニコしてるとこしか思い出せない。なんかすごいな。でもそんな日々を過ごせたのも阿弥陀籤のおかげ。
あの時、別な線を選んでいたらもちろん違う学生生活があって、その先の仕事だとか生活も違ったものになっていたのかもしれない。けれど、このゴールしかなかったように思う。その後お母さんが亡くなって、教育実習最終日の夜にお父さんが亡くなって、あまり学校に行けなくなるも、それはまた別の話。楽しく引いたわけじゃなかったけれど、結局引いて良かった阿弥陀籤。
#nobuliereさんありがとう