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老木に残った花

能楽堂にて『小町花伝』を観た。
はじめての、瑞々しい体験だったので備忘録として記しておく。以下なげぇ予感。

全部で三部構成だった。
第一部は朗読・能『卒都婆小町』、第二部は演劇『小町花伝』、第三部は作品をふまえた座談会という構成である。

まず、能。
観阿弥原作の卒都婆小町を、原文・現代語訳・唄で朗読するというつくりだったのだが、前提として私は能についての学は皆無である。
だもんで、開演直後の数分間は、普段の音楽生活では聴き慣れないたっぷりとした謡い回しに対して退屈の予感というか、「おぉ〜これが30分くらい続くのか...」みたいな印象は正直あったのだけど、物語が進むにつれて徐々に払拭されていった。予習として読んでおいた白洲正子さんの本の「能は進めば進むほど面白くなる」という一文を身をもって識った。たぶん白洲さんはそういうことを言いたかったわけじゃないと思うけど。
自分の呼吸音でさえ(ひそめているにも関わらず)喧しく感じるほどに、静謐で厳かで、得も言われぬ緊張感があった。
原文で耳に入ってくる台詞たちは、まるで英語を一旦脳内で日本語に訳してからやっと理解できるように、ワンクッションが必要だった。そのひと手間も、普段の演劇体験ではなかなかないことなので愉快だった。

さて、次にお目当ての『小町花伝』。
能楽堂には不釣り合いの、稽古着のようなラフな服を着た女優さんが登場する。開口一番、「彼女はいつ死にましたか」。第一部における荘厳な雰囲気が一気に崩壊されてゆくようで、ああーこの空間をこわさないで〜〜と一瞬願ってしまった自分がいた。けれど、徐々にmizhenワールドに支配されていく感覚、その虜になった。
耽美的でちょっと変態的、しかしとっても品があって、小町がいかに美しく愛すべき存在だったかを描いていたり。お堅い印象の申楽をあれほどまでにフランクに再構成できるなんて、と始終ひたすら感服していた。

第三部、公演を踏まえての座談会。これがまあハチャメチャに面白かった。
内田樹さんが紡ぐ言葉はどれも独創的で理にかなっていた。
作品について仰っていたのは、「小町は実は歳をとっておらず、深草の少将の死にショックを受けたことが原因で彼女の脳がみた幻影(すなわち自己処罰)である」という説。
本当は彼を愛していたのに、余りに身分が違いすぎるためグロテスクなナルシシズム(と藤原さまが形容なさっていた)によってそれを抑圧してしまった。そして生まれた小町の解離性障害をみせた作品が卒塔婆小町である、という解釈は面白かった。

主旨から枝分かれした内田さんの印象的な哲学だと、「ひとは歳をとればとるほど、それ相応の老いを演じるようになる」とか。昔の少年たちは老成しているような部分があって、画数が多い漢字を使いたがるとか悪党になりきって文通するとか。それについては観客含め男性陣に共感者が多く、「それってつまり現代で云う厨二病では?」と思った私はなるほどね(すいません)、とひとり静かに納得した。

あとは、呪詛返しについての話。
今回の『小町花伝』第二部、三部のように、若くて美しい女性たちが中年や老婆を演じることは、言わば呪詛返しである、とのこと。妬み嫉みを受けないように、あえて醜い状態を演じることによって悪しき存在を追い払おうとすること、それが即ち「呪詛返し」らしい。昔の習わしとして、赤ちゃんの額に「犬」の文字を書くというのもそれにあたるという。厄除け的なことですね。

なんだか散文的になってしまいましたが、『小町花伝』について感じたことが上です。
記事タイトルは、「正しく生きていれば、木が枯れ果てたとしても美しい花だけはその枝に残る、そのようにして能の道を辿っていきなさい」という指針のような一文です。白洲正子さんの本に書いてありました。

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