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第20章 優しいのに優しくない。

美優ちゃんの部屋を、マリーは、片付けていた。今日は、久しぶりに晴れている。ベランダにお布団を干し、シーツ類や置いてった衣類を洗濯した。

マリーの気がかりは一つ。

それは、机の上に、ちょこんとある。

「美優ちゃん...。慌てて、荷物まとめて行ったから、置いて、忘れてっちゃったんだ...」マリーは、カーペットに掃除機かけながら、その小さな桐の箱を見つめていた。

「どうしよう...」

もしかしたら、忘れて行ったことに気づいて、取りに戻って来るかもしれない。だけど、それまでどうしようか。マリーは、震える手で、その小さな桐の箱に触れた。そして、そっと撫でた。

看護師さんが、美優ちゃんが入ってきた時に話していた。妊娠21週を過ぎた赤ちゃんを、中絶する場合、普通分娩と同じように、息んで産むらしく、生まれてきた赤ちゃんの中には、泣く子もいるらしい。もう、ちゃんと人間の赤ちゃんの形をしたその子は、専用のケースに移されて、そのまま、何も処置はされず、死んでゆく。それが、21週を過ぎた赤ちゃんを中絶する方法なのだそうだ。

だいたいの産婦人科は、そういうケースの女性の中絶は、拒否をするらしい。受け入れた病院側も、そのようなことを目の当たりにするのは、いくら仕事とはいえ、心の負担は計り知れない。

ただ、望まない妊娠には、様々な事情がある。快楽に勤しみ、避妊しなかった結果もあれば、性被害に巻き込まれた場合の妊娠もある。罪のない命を奪ってしまうということについて、悩んだ末に、21週に至ってしまった場合もあるだろう。

また、何らかの事情で、中絶などの医療の情報を得られず、日が過ぎて行ってしまったとか、何らかの事情で、自分が妊娠していることに気付かなかったとか。

21週が、赤ちゃんを中絶できる、ギリギリの日数だけれど。

誰も、そのことについて、当事者を責め立てる筋合いはないけれど。

ただ、その赤ちゃんは、どこへ行ってしまったのだろうか。

そのことについて、この世の中で、責めを負う人間は、本当にいないと言えば、そんなことはないだろう。責めは負えなくとも、美優ちゃんのように、涙を流しただろうか。

「この子の父親は...」

マリーは、小さな桐の箱を、パカって音を立てて開けた。柔らかい小さな白いお布団の上に、小さな白いカケラが眠っていた。

マリーは、箱を両手で包むように持つと、園長のところへ行き、話をした。園長は、箱を開けると、少し驚いたように固まった。横で聞いていた主任が、「もしかしたら、置いて行ったのかもしれないよ」と言った。「え?」マリーと園長が、主任を見た。主任は、デスクに顎肘ついて、窓の外を眺めていた。そして、マリー達の方は見ずに、

「頑張って生きて行こうって、決心したんじゃないかな? 自分が生きられる道でさ。だから、置いてったんだよ。きっと。あの子は、あの職業で生きて行くって、しっかりと決めたんだよ」

と言った。

「忘れるためじゃなくて、わたし達に、この子を託したってことですか?」

マリーが聞いた。主任は、

「そう。もう二度と同じことは繰り返さないと誓って、あの職業を続けることを決めたんだよ。美優ちゃんは」

と言い、マリーを見た。そして、ニッコリ笑うと、

「お寺に持って行って、水子さんの供養をしてもらいましょう。この子も、周りにたくさんお友達がいた方が、淋しくないでしょう」

と言った。

マリーの鼻の奥がツンとした。それは、美優ちゃんのことや、この名前のない赤ちゃんのことを思ったから。それと...


窓際のポポ子は、小さな毛糸のゆりかごで、スヤスヤ眠っている。マリーが、美優ちゃんの赤ちゃんの骨を見た日。鍵編みで編んだものだ。黄色いフワフワな毛糸で。編んでる時、まるで、これから、マリーの赤ちゃんが生まれてくるような錯覚に陥って、泣けてきた。

小さな寝息を立てて眠るポポ子に、マリーは、小さな声で話しかけていた。

「主任も橋本さんも、あんなふうに優しいのに...。ちゃんと、美優ちゃんのこと考えてて、分かってあげてて、すごく優しいのに。なんで、坂口さんを、あんなふうにいじめたんだろう...」

ポポ子の鼻が、「ぴー」と鳴った。マリーは、クスッとして、

「みんなそうなのかな? 人は、みんな、優しさと残酷さが、心の中に同居してるのかな? 相手の幸せを心から望む気持ちと相手の不幸を心から望む気持ちが、いつも同居していて。美優ちゃんは、主任にとっては、優しくしたい対象だったのかな? 自分より可哀想な子だから? それが仕事だから? 坂口さんは、主任にとって、何だったんだろう? 界も...」

「ぴーぴー」ポポ子は、鼻を鳴らして、夢の中で、「えへへ」と笑っている。

「わたしも、美優ちゃんが可哀想だから、優しくしたのかな? もしそうだったら、美優ちゃんは、気づいたはずだ。あの子は、人のそういう汚い部分を、しっかり見ている子だから...。自分が、いい人だと思われたいから、有能感に浸りたいから、助けてるなんて。そんなカッコ悪い、ダッサイ大人が、一番嫌いなはず...」

「マリー、見て見て!」マリーは、ドキンとした。ゆりかごを覗くと、ポポ子が、ヘソを出して眠っている。

「なーんだ。寝言か...」

マリーは、正方形に切った、小さなガーゼを、ポポ子のお腹にかけてやった。そして、秋風が入る窓を閉めた。今夜は十五夜。

「美優ちゃん、お仕事中かな? 美優ちゃんが、この月見てたらいいな...」

と、マリーは思った。


つづく

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