第10章 正義が怖い
マリーは、事務所で本を読んでいた。この世界では有名で偉い人が書いたらしい本。
仕事だと思えば読めるかな、なんて。
そう言えば、界も言っていたな。『生きづらさを抱えた女性』
生きづらいのは、女性だからなのかな。生きづらい男性っているのかな。
「そりゃ、女性の方が生きづらいわよ。この日本社会は、まだまだ男性優位な社会だもの。あなた、感じない? 生きていて」
わたしの席の前に座る、橋本おばさんが言った。橋本さんは、この女性福祉一本で生きてきた人らしい。橋本さんが若い頃って、きっと、いまよりもっと、福祉が未発展の時代だろうから、大変だったのだろうけど。
「大変だったわよ! 女性福祉なんて、福祉の中じゃ、ぜんぜん光が当たらないもの。だけど、あの頃から、貧困に喘ぐ女性はたくさんいたのよ。女性ホームレスなんて言葉で片付けられちゃうけど、性の搾取の対象とされてたのも、セットに考えないとね!」
「え?!」
「そうなのよぉ〜」
橋本おばさんは深く頷いた。
「はあ...」
マリーは本を閉じた。
「ねぇ、また、喋ってるよ!柳川たち!」
マリーは、主任を見た。まさに悪口を言おうとしている顔。舌打ちをしそうに、顎を突き上げ、少し笑う。人を見下すような笑みを浮かべるのだ。ここ数日だけ、『しあわせ園』で勤務しただけなのに、この数日、毎日、マリーが聞いてきた、柳川流菜の悪口。マリーの想いの人、新地界の悪口だ。
そもそもが、マリーには分からなかった。ここは、女性のための福祉施設で、入所する人たちは、さっきも、橋本おばさんが言っていたように、この社会で傷付いてきた女性たち。そして、この事務所にいるおばさんらは、その傷付いてきた女性たちを、『助けている』と、社会では認知されているはずだけれど。
「柳川がさ、自分の時計を見せびらかして、『これ、吉祥寺で買ったのよ』なんてさ、バッカじゃないの! おまえは、なんでここに入ってんだ?って話だよ!」
(呼び捨て...)
マリーの胸がズキズキ痛み出した。ここ毎日、この痛みが走る。そりゃそうだ。自分の好きな人のことを、憎々しい顔で、ズタボロに言われているのだから。
「柳川さんて、入居費や食費やら、全部支払ってんでしょ? 何に困ってるの? 社会で生きていけない何かがあるから、ここにいるんだもんね! アハハハハハハ!」
東堂さんが甲高く笑った。
「だってさぁ、東堂さんがやってる活動にも、ああいう人いるんでしょう?」
橋本おばさんが言った。マリーは、隣に座っている境さんに聞いた。
「え? あ、あのあの、東堂さんて、活動って?」
「ああ、東堂さんは、障害を持った女性の支援を、ボランティアでやってるのよ! 偉いでしょ!」
境さんは、ニコニコして言った。マリーは、止まった。
「東堂さんみたいな、正義の味方がいるおかげで、ここに居られることを忘れちゃいけないよね。あんなふうに、働きもしないで、ベラベラ無駄口ばっかり!」
園長が、受付の小窓から、ラウンジで談笑する界たちを見て言った。界は、楽しそうにお喋りしながら、こちらを見た。園長は慌てて目をそらした。界とマリーは目が合った。界は、いつもどおりに、優しい笑顔で笑いかけてきた。マリーの目から涙が溢れた。
続く
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