孤独を生きる人間の美しさ 〜英国ドラマ ENDEAVOUR〜
新米刑事モース〜オックスフォード事件簿〜
この作品は、英国の学術都市オックスフォードを舞台に、新米刑事モースが難事件を解決していくミステリードラマである。作品の中では、英国社会のトップ層に多くの人材を輩出するオックスフォード大学を中心に、権威主義が深く浸透したこの街の世情が細やかに映し出されている。しかし、刑事ドラマでありながらもこのドラマがテーマとするのは、浅短な倫理観ではなく人間という生き物の歪さであるように私は思う。
人間のパラドックス
この作品の特徴は、人間特有のパラドックスがいくつも散りばめられている点ではないだろうか。その多くが、権力と強く結びついたこの学園都市を舞台にしなければ描写できないものだ。
高い知性があるのにインモラルである
高い教養があるのに野蛮である
高い知能があるのに愚かである
無垢であるのに畜生道に堕ちる
このような不可思議な人間の姿が、英国の伝統溢れる世界観の中に炙り出されている。
死や苦しみの意味
そしてこの作品では、人が壊れてしまうほどの、人生を決定的に変えてしまうほどの”苦しみ”に焦点を当てている。
死や苦しみは、何のためにあるのか。
この問いは、いつも物憂げなモースの思惟の根底にあると同時に、作品に一貫して添えられている副題であるように思う。
うなだれたような、モースの後ろ姿。
この作品の要である主人公エンデバー・モースの気難しい人物像は、クェーカー教徒である母を早くに亡くしたこと、そしてオックスフォード大学在学中に婚約が破談となったことで、初めて完成されたものと思われる。
耐え難い苦しみの末に出来上がった彼のメランコリックな人物像が、この物語最大の魅力である。その鋭い感受性と高い知性は、彼自身のビジネスライフや瑣末な人間関係に注がれることはほとんどなく、常に物事の裏側にある人間の本質に向けられている。また、人文学の根源となるものを深く理解する力となっている。
自分が自分でいられなくなるほどの苦難。無限の愛や力を私たちが強く求めてしまう時。それは、この世に生を受けて以来決して解けることのなかった優しい魔法が解ける時・・。モースだけでなく、作品中ではサーズデイ警部補の娘ジョアンの下にもこの瞬間が訪れている。また、終戦からまもないこの時代の人々の心にある、修復できない戦争の傷については、シリーズを通して幾度も取り上げられている。
未だ過去を生きる人、苦悶の中で今を生きる人。
どうすることもできない痛みを抱えながらも歩み続ける人々の姿は、静かに私にこう伝えてくれているような気がする。
強く望み、求め、足掻いても、結局人は皆自分のやり方で生きていくことしかできないのだ、と。
このドラマは、モースの孤独が確固たるものになるまでを描いた物語である。モースのファーストネーム”Endeavour”は「努力」を意味するが、これは一般的な努力"effort"とは異なり、より強い意欲と積極性を本人に求める類のもので、困難に立ち向かう決意や目標を追求する精神を表している。この言葉は古フランス語などから派生したとされており、”中に道義的義務を負う”という意味を含む。この由来を踏まえると、一転してぐっと厳粛な意味合いになってくる。“名は体を表す”とはよく言われるが、モースの名とその生き方に、何とも宿命じみたものを感じるのは私だけだろうか。
孤独を生きる人は美しい。なぜなら、孤独は物事に対するその人の決然たる姿勢の現れであるからだ。人が孤独を生きる時、その精神は静かに活動する。その営みは、人知れずただ粛然と進んでいるものだ。私がこのドラマに強く魅了されてしまうのは、そんな人間の奥行きをふんだんに映し出した作品だからなのだろう。
この社会では、なぜか自分の全てが他者に許容されなければならないようなプレッシャーがある。容易く理解されるべく単調な人物像であること、他人に苦痛を与えない素直な存在であること、安心感のある使い慣れたリアクションと言葉、マジョリティの価値観。他者からそんな”標準”的な人間に見られるよう、誰もが日々努力しているように見える。しかしながら、本来人間は自分たちの想像の域に収まるような明快な生き物ではない。そして私はそこに人間の豊かさがあるような気がしてならないのだ。作品を見ていると、今社会で加熱するこのゲームのようなものが陳腐にも思えてくるから不思議である。
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