Dream Diary -水の中でお別れを
夢を見た。
私が会社を退職する日の夢だった。
なぜなのか、青白い霧がかった静かな屋外で、周りにいる人たちに最後の挨拶をするところだ。
そこに一人の先輩が通りかかった。前の部署で一緒のチームだった先輩だ。
ずっと前に、私が好きだと伝えたことのある人だった。
私は思い出が蘇り「また昔のチームのみんなで呑みに行きましょう」と彼に言った。すると彼は「あー、うん」と言いながら、ポケットからペンを出し、連絡先をいつものように自分の手の甲にメモしていた。
その時、私は胸騒ぎを覚えた。彼は思っていることを言わない人なのだ。「これではいけない、彼はこういう時の事の対処が上手だから、この話を無かったことにしてしまうかもしれない。私が彼の電話番号を聞かねば・・」と焦り「私にも教え・・」と言いかけたその瞬間、とうとうみんなに退職の挨拶をする瞬間が巡ってきて ー
・・というところで目が覚めた。
冬の夜。まだ朝4時前で外は暗い。街頭の光で部屋は青白く照らされ、遠くにしとしとと雨の音が聞こえる。
ずっと忘れていたし、会いたいとも思っていなかったはずの人たち。
思わず、ふっと息が漏れた。
優しい雨音を聞きながら見たからか、夢の中では水中にいるように空気が澄んでいて、一瞬一瞬がゆっくりと過ぎた。彼と同じチームで働いていた頃の感情が、純度を上げられて一気に夢の中で蘇った。
私はまだ若く何も分かっていなかったけど、社内で自分が置かれていた状況から、どんな人間関係も会社が自分に与えてくれた機会も、もう二度と戻ることはないということだけは分かっていた。
当時、専門外の部署に配属された私は右も左も分からないまま、仕事にも会社の価値観にも馴染めず、毎日孤独と無力を感じていた。噂話が溢れる部内で、周りにも「変な奴」「ふざけた奴」としか思われたことはないと思う。私はこの時人生で初めて、できないと自分が本気で思うことに取り組む必要に迫られていた。恐怖と絶望で毎日視界が暗くなっていたのを覚えている。
変な話だけど、そういう時には周りの人の綺麗なところはより一層美しく輝いて見えるものだ。その人にしかない美徳や生きる姿勢、優しさ。そしてそれを本人に伝えてしまう。それが私の癖だった。
彼は、実験室でもがけども変わらずどうしようもない状態にいる私を、一番近くで最後まで見届けた人ではないかと思う。毒のある言葉で容赦なくバカにし、からかいながら。
背が低くてモジャモジャの天然パーマ。
会社指定の作業服のズボンを、毎日ダボダボにして履いている。
タバコもやめられないらしい。喫煙仲間のおじさんが彼の周りには大勢いた。
そういえば、ある日会社の廊下でしゃがみ込んで立てなくなっている彼を見たことがある。「大丈夫ですか」と聞くと「うん」と彼が返事をしたので私はそのまま立ち去ったのだけど、後から聞けば彼はこの一週間歯痛を我慢していたらしく、倒れたか何かで限界を迎えたことが上司の知るところとなり早退扱いとなった。
正直、歯痛を我慢して一週間勤務するのなら、先に歯医者に行った方がよっぽど効率的な気がする。だけど彼の行動には誰にも言わない独自の基準があって、日常的にその基準で自分のことも判断していたように思う。ところ構わず辺りにいる人と冗談を言っているし、挙動不審になっている新人の私も話に入れてくれる。一見飄々としているのだけど、一際自己批判意識の強い人だったように思う。遅くまで、一人で実験室に残ることも多かった。彼は怒っている時も、正確に、穏やかに話す。いつもの柔らかな口調で、上司や先輩、後輩をナイフで切り付けるように批判するのだ。もちろん私のことも。静かに怒っているようなところがあった。
夢の中でも、相変わらず自分は要領が悪かった。
なぜ私は退職の挨拶と連絡先交換を同時にしようとしているんだろう。
私の会社員生活は、一時が万事こんな風だった。
みんなができていることが、できなかった。
豊かに生え揃った美しい彼の睫毛。
夢の中の彼は、実物より綺麗だった。
幻想だとわかっていても、もっと見ていたいと思うほどに。
夢の中で願ったほど、私は現実に彼に会いたいのだろうか。
いや、そうではない。
今の彼に会いたいのではなく、あの時の彼に会いたかっただけだと思う。