「今どき」のアニメを見て気付かされたこと 〜スポ根アニメに学ぶ生き抜く力〜
「そういえば最近、今どきのアニメとやらを全然見ていない」と気づいて、AmazonプライムやTverで「薬屋のひとりごと」と「葬送のフリーレン」を見始めたのはこの2月から(多分)。今も毎週の更新を楽しみにしているアラフォーの私である笑。
最初、ぼんやり第一話から見始めた私は、
なぬっ?!
と声をあげてしまった。「薬屋のひとりごと」は薬草や医療の知識を持つ少女が突如宮廷で働き活躍し始める物語なのだけど、彼女は始めから宮廷の医局よりも優れているという設定になっている。そして「葬送のフリーレン」に至っては、第一話の時点で既に社会に平和をもたらした勇者一行のメンバーという設定だったのである。
これは私にとってかなり衝撃的なことだった。なぜかというと、この二つのアニメを見て初めて、これまで自分が親しんできた様々なアニメが往々にして「スポ根」要素に基礎をおかれていたことが分かったからだ。
そう、これまでの作品は、主人公が何者でもないところから始まっていた。幽遊白書やHUNTER×HUNTER、ドラゴンボール、デスノートとかスラムダンクも。(私の記憶、あってるかな?そして読んだ作品に割とムラがあるな・・)
スラムダンクに至っては、主人公の桜木花道がバスケの「バ」の字も知らないところからストーリーが始まっている。文字通りの”0”が明確に提示されているのだ。
改めて、過去のスポ根作品について考えてみた。
スポ根は、人や物事が成長過程にあることを肯定する。だから人間の「できない」を肯定することになる。作品の中では、登場人物がまだできないこと・できなかったことが細部まで丁寧に描かれ、時折読者も胸をえぐられるほどだ。そうやって辛辣とさえ感じるほどシビアに描かれた作品が私たちにもたらすものはなんだろうか。
私たちは誰しもが、最初は何にも持っていない。私に至っては、学校を卒業し社会に出た頃も持っていないし、そして今現在も、ないところを捻り出そうと模索しながら生きている(要するに、ない)。自分だからできることがあるのかどうか、自分が周りに何を提供できるのか。多分、それは死ぬまで私が考え続ける大きなテーマのように思う。もちろん、私も心優しい誰かに言ってもらったことがある。「あなただからできることなんてなくていいんだよ。あなたはあなたでしかないのだから。それだけで価値があるんだ。」と。それはある意味では本当のことだと思う一方で、何だかモヤモヤしてはこないだろうか。それは、どんなに優しい言葉をかけ合ってもこの世界が単なる競争社会でしかない事実が、このメッセージとは矛盾するからだ。
どうやって生きていこう?どうやってお金を稼げばいい?
この問いに向き合うとき、私は自分を見つめざるを得なくなる。
「私だって何にもできないわけじゃない。だけど・・」と。
誰もが、自分も相手もありのままでいてほしいと願っている。その一方で、市場経済でこの社会が回っている以上、誰かの需要を満たすため、今自分が持っていない「何か」を常に獲得していかなければならないと私は強く感じるのだ。それが自分が自分らしく生きるために必要な成長なのだ、と。
スポ根は、人が自らの手で何かを獲得していくことの喜びを伝えている。もちろん、それは0から1を生むことの苦しみと葛藤、そして地道で泥臭い努力を細かく描写して、初めて伝えられるものなのだ。だから、スポ根漫画の1秒は時に永遠かと思われるほど長い描写となり、読者は血のように濃く凝縮されたその時間を主人公と共に過ごすことになる。
このことは、私のように、まだ当時社会に出ていなかった読者にとって大きな恩恵があったように思う。漫画の世界とはいえスポ根精神に馴染んでしまうと、それ以降に実社会で自分に与えられた試練や困難を、多少は自分なりに納得感を探しながら乗り越えられるという側面があるからだ。もちろん、これは社会に蔓延するハラスメント的なことを肯定する意味ではない。あくまでも「自分の意思で設定した課題に向き合う力をくれる」という意味である。
絶えず成長を求められるこの社会で、前進する過程をいかに楽しむか。その原点がスポ根作品にはあるような気がした。
※スポ根とは、スポーツ根性のこと。(死語かもしれない)