森 博嗣を読む理由

「辛辣」 という言葉は、辛い現実を突きつけるためにある言葉だと思っていたが、そうでもないらしい。たとえば、「夢に叶え方を知っていますか?」 という本では、抽象的な夢を掲げることは誰にでもできるが、具体的に行動に移していることは何か、または見当違いな方向を歩んでいる可能性を指摘している。受動的である「憧れ」から能動的に正しく走り出せているかどうかを確認させようと語りかけてくる。

こういった問いは僕を緊張させた。僕が実際に行動していることは、何の役にも立っていなくて、ただ気持ちよくなっているだけの趣味なのではないか、と思わせてくれるからだ。

そして、夢の本質は過程にあるのではないか、とも言及している。つまり、ドライブの目的地はドライブの過程を生むための、暫定的な目的地に過ぎないこともあるということだ。こういった慰めが、僕に現実を見せながら目を背けさせないように助けてくれる。だから僕は、現実を見つめることができる。

魔王を倒す勇者ヒンメルが旅の過程を楽しみたいと言って、魔王討伐に10年掛けた話を僕は好きだが、それは現実を直視しないながらも歩めるからだ。目標の夢に続く直線から目を背けながら進むことは悪い人生ではない。しかし、そこからひとつ、勇気をもって直視することができる。辛い現実が辛くないと感じられる。

実際に僕がしていることは本を読んでいること。ただの情報収集に過ぎないが、絵を描くためには「何を描くか」ということを見定める着眼点が必要になってくる。描く技術だけでは足りないし、それは時間をかければ誰にでも上達することだ。

最近知ったことでは、絵には物語が必要らしい。それが描くきっかけになると、おっしゃっているイラストレーターさんがいた。考えてみれば当たり前のようにも思えるが、僕にはそんなことも分からなかった。絵とは一瞬を切り取ったものだが、その一瞬は "物語の" 一瞬ということなのだろう。僕が物語るなんてことを意識的にやらないからか、そんな簡単なことにも気付けなかった。

ある本では、人間が現実を受け止めるためには物語が必要だという。結末が自分の思い通りになるから安心して夢を見れるのだろう。だとすれば、バッドエンドは何のためにあるのか、ということに思考が広がっていく。

ところで、絵を描くことと歌を作ること、文章を書くことはどれも同じことだと僕は思っている。どれも表現するところの得意分野は異なり、最終的な姿も違ってくるが、「伝える」という目的意識は同じである。だから今は、書くことについて語る本を読み漁っている。書くことは誰にでもできるし、様々な思考に手が届く。たとえば、自分の思考を整理することや物語を語ることだってできる。絵がどこまで深く語れるかはわからないが。

僕の夢はBUMP OF CHICKENの影響を受けている。声を出すようなことは全般的に苦手なので、外から見れば全く違う道を辿っているように見えるだろう。しかし、創作する人という点では同じだ。僕が何かを学ぶたびに、藤原基央が先に居た証拠を歌詞に残している。それが道の正しさを証明してくれているようで今はとても楽しい。

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