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「島原のブレーメン」

2019年 12月 世界遺産となった島原・原城跡地見学の帰り道、フェリーを待つ時間つぶしに、「この近くの美味しいカフェ」でSiri が教えてくれた 「ブレーメン」に立ち寄った。仲の良いご夫婦が大切に営んでいるお店、というのが店のドアを開けた瞬間にわかる、失礼ながら、こんな田舎にこんな本格的な珈琲店があるのか、と思ったところから物語は始まった。

浅草の有名コーヒー店「バッハ」で修行をして地元に戻ったご主人は元国際遠洋タンカーの船乗りさん。船では乗組員の皆さんの健康と胃袋を預かる司厨長さんだったとのこと。何で司厨長さんが珈琲屋のご主人に、という問いに、「キンコタイ」でね。と。

「キンコタイ」

一気に記憶が国際海運企業に勤務していた20代へと飛んだ。国際海運業界に関係のない人には、いや平成以降に海運業界に入った人間にはほぼ馴染みの無いであろう言葉。


「キンコタイ」。正確には「緊急雇用対策」。80年代半ばのプラザ合意で円はそれまでの1ドル300円前後から数ヶ月で一気に140円へと、急激に円高が進んだ。収入はドル、コストの多くは円ベースだった当時の日本の船会社にとって収入は半減、コストは倍増。およそ四則演算がまともにできる人ならば子供でも分かる未曽有の苦境に突然陥った日本の船会社は、苦境脱出のための苦肉の策として、優秀ではあったが円ベースでは圧倒的なコスト高となってしまった日本人船員数の大幅削減と、それを補う安価なドルベースの外国人船員の大量雇用に舵を切らざるを得なかった。

「退職勧奨」。当時飛び交った、雑な言い回しを使えば「クビキリ」。

一方、これまで会社を支えてくれた船員の新たな雇用創出・確保のために、邦船社は全力を尽くした。「キンコタイ」では会社を去る船員が新たな職業を得るための支援を可能な限り行った。ご主人がバッハで行った修行もまさにこの一環であった。

「先が見えにくい人生より、全く見えない人生の方が夢がある」     あの時、僕はそう思ったのです。連れも賛成してくれたしね。そう言いながら、柔らかな視線を奥さんに向け、二人で過ごした2年弱の東京の生活をあれやこれやと懐かしみ、また、ふるさとの島原のすばらしさを穏やかに語ってくれた元司厨長と奥さんの話に、温かな午後の陽だまりの中、じっと耳を傾けた

お暇する前にレジに飾ってあった「ブレーメンの音楽隊」と思しき、額縁に目が留まった。「ああ、これ「ブレーメンの音楽隊」ですよね。これがこのお店の名前の由来なんですね。何故、ブレーメンだったのですか?」とおもむろに発した僕の問いかけに、「この絵は、僕の大恩人が描いてくれた大切な絵なのです」とご主人。

ブレーメンの音楽隊に入ろうとした動物たちは、あるものは老いさらばえ、あるものは役に立たないと烙印を押され、もはやだれにも必要とされない、存在でした。そんな動物たちでも、自らの意思で行動し仲間と心を一つにして困難に立ち向かえば、自ら生きたいように生きる力を得ることができた、夢だった音楽隊には結局入らなかったけど、その代わりに自分達にふさわしい居場所を見つけることができた、というお話でした。

「キンコタイ」によって、今まで生きてきた場所では”価値の無い”存在と言われた自分達にも、あなたには価値があると言われる、生きる意味を感じられる場所が必ずあるのだ。役に立たない人・ものはこの世に何一つない。だから勇気をもって新しい人生に足を踏み出すのだ。この絵は、この絵を描いてくれた恩人の言葉と共に、いつも僕の人生を支えてくれているのです、と。 

自分では決してコントロール出来ない気まぐれな時代の移り変わりに翻弄され、人生航路の変更を余儀なくされても、与えられた、苛烈ともいえる自らの人生の課題に真っ正面から真摯に向き合い、たくましく生きてきた人の強さを、そのピンと伸びた背筋と穏やかな語り口、そしてこれまでの彼の生きざまそのものを通して、人生の奥深さを教えてもらった、そう思った。

だから、旅はやめられない、よね。

皆さん、島原に行ったら、ブレーメンに立ち寄って、名店バッハ譲りの美味しいコーヒーを是非楽しんでください。おっと、それから激ウマ激安のシフォンケーキも。 

人生いろいろ。

but...   Life still goes on!

And yet it moves. それでも今日も地球はやっぱり回っている!


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