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チャイイェンエン

【Nick塾】 <グローバルよもやま話> 異文化対応・コンプライアンス

微笑みの国、タイランド。


世界中を仕事で飛び回った私にとって、アジアはとてもご縁の深い地域です。中でも、タイは通算滞在日数やその他様々な意味で一番縁が深かったといっても過言ではありません。毎月1週間のバンコク出張滞在を数年間繰り返したこともあり、実際に長く住んだ豪州、アメリカに次いで恐らく通算では複数年に及ぶ滞在をしている国です。


私の生まれて初めての海外出張も、タイ・バンコクでした。人生で初めてビジネスクラスに乗せてもらった感激は今でも忘れていません(笑)。時は1986年。今ではバンコクの新空港(とはもう言わないか)から高速道路に乗ればで30分程度の市内に辿り着けますが、当時はより市街地域に近い旧空港から下道の慢性的な渋滞をかいくぐりつつ、下手をすれば4時間もかかりました。当然、メーターの無いタクシーだらけで、空港を出た途端、覚えたての片言タイ語と身振り手振りで料金の交渉をするところからスタート。そんな時代でした。


今では多くの日系企業が進出して、重要なサプライチェーンの中にこの国の生産拠点を組み込んでいますが、その当時はまだまだ進出企業もまばら。首都バンコク、当時はまだ南国特有の温かな湿気のある空気とあいまったチャオプラヤー川の流れのようなゆったりとした時間と雰囲気を豊かにを持つ街でした。あの頃は渋滞もあり、約束の時間によく遅れるのを「タイ・タイム」とそういえばローカル社員が言ってたっけ。(笑)


ご存じの方もおられると思いますが、タイはアジアの国の中で欧米列強の植民地支配を受けなかった数少ない東南アジアの国の一つ(私の理解が間違っていなければタイだけだったかと)です。そうならなかったのは、様々な理由はあるのでしょうが、たおやかな柔らかい微笑みを絶やさずとも、実は意外としたたかな交渉上手の一面を持つタイならではなのだろうと、私は個人的には考えています。


余談ですが、クルーズツーリズムの仕事に従事していた時、バンコクで仕事で仲良くなったドイツ人のホテルGMに、「なぜドイツ人にとって東南アジアの中でタイが一番人気があるか分かるか」(確かに観光統計を調べればドイツ人観光客がとても多かった記憶があります)と聞かれ、「わからないと」と答えると「ここは他の欧州の国の文化的な色がついていない」(確か、flavorという英単語を彼が使ったような記憶があります)とのこと。因みに、彼のガールフレンドもタイの美しい女性でした。(笑)


確かにその頃は旧宗主国の文化的な香りの残滓はアジアの街のそこここに残っていたなあ、と。よく覚えているのは、ホーチミンのフレンチテイスト。何とも言えない”香り”が残っていました。ホテルのバゲットも美味かった。カイタック空港時代の、中国に返還される前の香港も同じアジア人の私の目にも、とてもエキゾチックだったことをよく覚えています。


月に一度の出張を重ねていた時に、ローカルの担当者として私をサポートしてくれたのがS君。彼が、「チャイイェンエン」と私に常に語り掛けていた人物です。チャイイェン。これ、「冷静に、冷静に」というタイ語とのこと。競争船社との議論の途中ですぐ熱くなって相手を論破しようとする私に、たとえ相手を論破して気分良くなっても、欲しいものを手放すことになる。欲しいものを手に入れるために冷静にと。なるほどその通り。したたかだなあ、と。いや、私が未熟、単純に過ぎたのでしょうね。蓋し名アドバイスでした。トホホ。


ご参考までに、若干法律系の話に逸れると、国際海運企業は独占禁止法の歴史とほぼ同様の年月をその法律の適用除外を長らく認められたかなり稀有な産業でした。空輸が発達する前は生活物資の物流は全て海運に依存していました。航海技術が未発達の時代、船はよく沈みました。そうすると運賃も物価も乱高下となり、経済は安定しない。ということで、定期船と呼ばれる生活財を主に運ぶ船の運航船社は、運賃の安定化を実現するために、ある一定の条件下、運賃や荷主に関する議論をすることが国際法上認められたのです。そう、「合法的な談合」が許されていた(独占禁止法適用の除外を受けた)、ということです。私たちが入社したころから独禁法強化の流れは世界中で急加速し、今では殆ど適用除外はなくなりましたが、私が90年代の後半に日本・タイ航路の運賃協議会なるものの議長をしていたのは未だその過渡期でした。


船社間の議論は時に各船社の利害が相反し苛烈を極めます。合意したことが履行されなかったり、嘘まがいの虚言を弄されたりと、まとめる立場にある私のストレスは時にマックス。激しいやり取りを外国船社のトップと行う血の気の多い私をT君は「Nickさん、チャイイェンエン!」といつも諫めてくれました。


東京の本社から来たそれなりのポジションの人間をローカル社員が諫める、という構図は、特にアジアでは、当時の日本とアジアの経済格差や本社・現法の立ち位置を考慮すれば、極めて勇気のいることだと思います。でも、彼はとことん腹を割って接してくれました。本音で昼夜議論を続けた結果、ありがちな本社/現場・現法の垣根を越え仲間になれたような気がしました。彼には「あなたのような日本人は初めて見た。本当に日本人?アメリカ人じゃないの」とからかわれたことをよく覚えています。飛び切りの柔らかな笑顔で。


それから幾星霜。


今でも、時に年甲斐もなく、議論に熱くなりかけたとき、T君の「Nickさん、チャイイェンエン!」が蘇り、「オッといけない」と我に返り反省する次第。大切なものを手放しちゃうよ、と。トホホ、情けない。(笑)  
そんな時に、昔の友人の戒めに感謝しつつ、同時に、彼の何とも言えない柔らかな(で意外としたたかな)タイ・スマイルを思い出すのです。大好きなタイに貢献したいと一生懸命働いたつもりでしたが、教えてもらったことの方が遥かに多かったなと、感謝と共にあの頃を時になつかしく思い出します。


And yet it moves. 

Global Diversity 他国の賢人から学ぶことは少なくない。

タイバンコク

=追=その頃のバンコク駐在でお世話になった少し年上の先輩が昨年鬼籍に入られました。二人でよく通った生バンドで歌わせてくれるバンコクのあの店にいつかまた行きたいですね、と言っていた約束は叶わなくなりました。いつか機会があったら一人で行ってみますよ、Kさん。そういえば、Kさんにもよく言われましたね、チャイイェンエン。 Yet, my life still goes on..




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