50才でナレーターになった私
私は50才でナレーターになりました。
20才のときに声の道を志し、30年越しに叶った私の夢。
50才…老後の人生設計を考えはじめる年齢です。
平均寿命50年といわれた江戸時代なら、とっくに死んじゃってる…笑
仕事ってどこにあるんだろう…??
そう思い続けた30年でした。
そこにふと見えた、針の穴ほどの光…。
こんなに長い間、何度挫けても挑み続けるなんて我ながら呆れるしぶとさです。「どうしてナレーターになったのですか?」この質問に先輩方はこう答えていました。「国語の時間に音読を誉められた」「演劇をやっていたから」…。私にはそんな記憶はありません。
容姿のコンプレックスが強い私は「顔を見せないで表現できる」声の仕事に惹かれたことは事実でした。
上京して今はなき「勝田声優学院」に入ったのは24才のとき。それからまた別の養成所、個人の声優さんに師事、40代になってから2つのナレーションスクールに通いました。
ここで皆さんに質問です!
「ナレーションスクールや養成所はどんな場所ですか?」
これをご覧の皆さんは声の仕事関連の方々…わかりますよね。
「プロになるための技術やノウハウを教えてくれる場所」
→正解!
「毎回のレッスンが仕事に繋がるオーディションの場所」
→これも正解!
「事務所が売り出す人材と、お金を落としてくれるお客さんを選別する場所」…
そうです。私はずっとずっと「お客さん」の人でした。どの事務所も仕事がくるための細かいシステムなんて教えてくれません。「お客さん」の人は蚊帳の外なんです。
振り返るといつも同じ光景を思い出します。
レッスンが終わったあと、残るように指示される人がいます。仕事を振ってもらえる人です。
私はレッスンが終わるといつも一番にレッスン場を飛び出しました。
そこに私の居場所はなかった…。
これまで声の仕事をするには、事務所に所属するしか方法がなかった。少なくとも私はこれしか知りませんでした。仕事は誰かに頂くもの。それが当たり前だと思っていました。事務所のお偉いさんに気に入られない私には、仕事は来ないんだと…。
初詣や神社巡りでは必ず祈っていました。
「生きているうちに一本だけでいいから、仕事をさせてください」「こんなに長く願ってるんだから一度くらいいいじゃないの!」そんな悪態をつきながら…。
私にも声の仕事ができるかもしれない…やっと見つけた針の穴ほどの小さな小さな光…それが「宅録」でした。
「宅録」は自宅で機材を揃えて録音し、制作会社などに納品する方法です。養成所に入るには年齢制限のあるところがほとんど。35才過ぎたら、声すら聴いてもらえず門前払いです。「宅録」なら、年齢で区切られることはないんじゃないか…そう思ったんです。
2020年2月、Twitterでフォローさせていただいていたナレーターの片岡晟さんの「ナレーター会議」に参加させていただきました。片岡さんは、男性で初めてナレーターの海外市場を開拓した、パイオニア的な存在。海外ナレーター市場で「akira」と言えば知らない人はいない、有名ナレーターさんです。
ナレーターでもないのにナレーター会議に参加させてほしい…こんな図々しい不躾なお願いを、片岡さんは「いいですよ!いらっしゃい!」と快諾してくださった。このときに「宅録」をするにはマイク、オーディオインターフェース、ヘッドフォンが必要だということを知り、早速これを購入しました。
テレビ録画すらできない機械音痴の私は、宅録に取りかかるまでなかなか腰があがらなかった…。
静かな環境で録音するのはもちろんですが、ノイズを除去する作業も必要になります。
自分が嫌いな私は、ナレーターになりたいと言いながら、自分の声を聞いたことがなかったんです。
でもこの作業で仕方なく、何度も何度も自分の声を聞きました。否応なしに、自分の声と向き合うことになったのです。
この頃、片岡さんがFBで「ナレーターブランディング会議」を立ち上げました。ここでも図々しく参加させていただくことにしました。入ってみて…先輩方のそうそうたるご経歴に脇汗しかでません…局アナ、有名劇団出身、数か国語を操るバイリンガルナレーター…完全に場違いでした…。
よくわからないなりに、投稿は全部みていました。
いつかわかる日がくる…はず…。
なんとか録音はできるようになったものの、さて肝心の仕事はどこに…??片岡さんのナレーターコンサルを受けて、制作会社に直接営業をかける方法を知りました。コロナの感染拡大により東京は非常事態宣言が出され、時間だけはたっぷりありました。
しかし、営業…??募集してもないところに営業するなんて、私が一番嫌いなやつです。
そんな時に目に飛び込んできたのが、おかけんさんのツィートでした。おかけんさんこと、岡田健志さんは福井にお住まいのナレーターさんで、ご自宅に防音完備の素晴らしい録音ブースをお持ちです。ここから全国に声を届けていらっしゃる、オファーがひきもきらない人気ナレーターさんです。
おかけんさんは以前1000件の営業を全国にかけていらっしゃったのですが、自粛中に営業活動を再開されたようで「今日は○○県に○件、営業」と毎日ツィートされていました。
「私も営業はじめたんです。」
「営業はね、ドラクエと同じ。ゲームなんだよ。
どんな声か知ってもらわなきゃ買ってもらえない。
あっちからこないなら、こっちからナンパしにいかないと」おかけんさんは、こんなリプを返してくれました。
そうか…ゲームか…そう思ったら気持ちが楽になってきました。売れっ子ナレーターのおかけんさんでさえ営業されてるんだ、私がやんないでどうする…ドラクエはよくわからないけど、ゲームで全国攻略するつもりで、楽しくやってみよう!1日20件の営業メールを送る目標を立てました。5月初めからスタート、ちょうど自粛期間終了の5月下旬に、
全国47都道府県の映像製作会社にメールを送り終えました。370件になっていました。
見積り依頼は数件あったものの、なかなか仕事には結びつきませんでした。6月に沖縄からオファーがあって見積りを依頼され、原稿も映像も届いていたのに、次の日に「クライアントの都合でこの話はなくなりました」と連絡がきたこともありました。
神様のやつ…この期に及んでトラップかけて来て…悔しい!
私はなぜかあまり落ち込みませんでした。ここまできて、引き返すわけにはいかなかった。自分との約束は自分で果たすしかないと思ったのです。
7月下旬、「お待たせしました。14secの見積もりお願いいたします」…和歌山からこんなメールが届きました。仕事の依頼っぽいことはわかりましたが…14sec…なんじゃそりゃ?
制作会社に聞くわけにもいかず、「ナレーターブランディング会議」に投稿して聞いてみたところ「14秒の尺」ということらしい。TVCMの場合、15秒を過ぎると本編に入り込んでしまい、放送事故になるとのこと。
おそるおそる見積もり金額を提示し、了解を得て
宅録です。音質は、ノイズカットは大丈夫か…
幸い短い尺だったため、編集でカットしたらノイズは気にならなくなり、無事納品できました。
「いい感じですが、違うパターンでもうひとついただけますか?」そんな感じで二つ目を提出して、
なんだかあっけなく、30年待ち焦がれた初仕事は終わりました。
たった一本ナレーションを納品しただけで、ナレーターを名乗るなんておこがましい…私にもわかってます。スタート地点にたった、それだけのことだということも。
書き終わってわかったんです。私は人を励ますのが一番好きだったんだってこと。長い長いこの道のりが、誰かの小さな勇気になればこんな嬉しいことはありません。そのために神様は、夢の実現を引き伸ばしていたのかもしれませんね。
先日49才で競輪学校に入り、競輪選手になった女性の話をテレビで見ました。プロスポーツ選手に49才で???驚きました。あり得ないことをやってのけた人がいた!もしかしたら私も50才からナレーターになれるかもしれない…。若くない、美しくない、華麗な経歴もない、舞台やったことない…ナイナイづくしのオバサンがほそぼそとでも続けることができたら…もうちょっと誰かの背中を押せるかもしれません
片岡さんのくれた「長井さんの声を待ってる人がどこかに、必ずいます。」…この言葉はこの先もずっと私を支える光になってくれると思います。
夢は必ず実現する…なんて言いません。
やりたいことと、やれること、求められることが違うこともある。でも、今だからわかります。あとで振り返ったとき、その過程が光になる。
人が死ぬときにもっていけるただ1つのもの。
それは経験と感動だけだから。