せん妄事件-高裁判決要旨への個人的な見解
はじめに
世間を賑わせているニュースがある。
はじめに私の意見を述べておく。興味を持った方のみその後を読み進めていただきたい。(医療職以外には聞きなれない用語が出てくることも多いと思いますが、wikiでいいので調べてみてください)
・被害者がせん妄状態であった可能性は「ある」、せん妄ではなかった可能性も「ある」
・被害者が性的な幻覚を体験していた可能性は「ある」、幻覚でなく事実であった可能性も「ある」
・被告が本当のことを言っている可能性は「ある」、虚偽の発言をしている可能性も「ある」
本件に関して証言や証拠をもって医学的に語れるのは「可能性」についてまでであり、蓋然性の高さをもって事実認定するのは裁判官の職域である。私の手元にはわずかな資料しかない。つまり「判決要旨」と題された文書のみである。この判決要旨を読んでみると、用語の誤用や誤認が目立つし、一文の中で矛盾している箇所も見られる。上記の通り、裁判官の職域に口を挟むことはしないが、正確な知識や用語の定義を理解した上で判決を下すのが裁判官の職責と思われるため、この文章では、判決要旨のうち医学的な範囲について扱った部分に関して、誤用、誤認、矛盾箇所を指摘していく。改めて断っておくが、この判決が正当であるか不当であるかという点について私は意見を述べない。それは司法官の職域であるし、私がそれを述べたところでバイアスのかかった個人の意見に過ぎないからである。
判決要旨の概要
判決要旨は【主文】で「原判決(1審判決)を破棄する」とした上で、【事案の概要】について述べ、【控訴の趣意】の項で検察側の主張を記載した後に【当裁判所の判断】として判決の要旨が述べられている。私が扱うのはこの「当裁判所の判断」中、「3 A(被害者)のせん妄の可能性について」についてである。この項は更に(1)(2)(3)の小項に分けられており、(1)では原判決の問題点を指摘し、(2)で本判決に至った経緯を述べ、(3)で結論している。(1)の前半はカルテ記載についてと病院スタッフの証言の信用性について述べており、この部分は医療の問題ではあるかもしれないが、医学的な話題ではないので特に触れない。さて本題。
判決要旨への見解(前半)
さらに、Aは、15時12分の時点で、LINEのメッセージをDに送信している。スマホを探して、アプリを起動し、宛先を探し、内容も変換ミスはあるもののメッセージの内容が他の証拠から認められる周囲の状況に整合したものになっていることから、Aが冷静で合目的的な行動を取っていたと言え、これは、せん妄による意識障害があったこととは相容れない事実である。
初めから細かい点で恐縮だが、「せん妄による意識障害」という表現に疑義を呈する。せん妄というのは「意識障害下にある」という状態を指す用語であって、せん妄が原因で意識障害になるわけではない。この一文の要旨自体についていえば、せん妄状態下で合目的な行動を取ることは十分にありうるため、合目的な行動を取っていることを理由にせん妄でないとは言えない。冷静かどうかは主観的な問題である。
(中略)Aの状態をDSM-5等の診断基準に当てはめた場合、Aに対して、せん妄という診断がされ得ることは否定できない。しかし、DSM-5の短期間の障害は、数時間ないし数日継続することを前提としており、Aの状態がこの基準を満たしていたかは疑問がある。
声を大にして言いたい。DSM-5の誤用である、と。DSM-5はアメリカ精神医学会が作成した精神疾患の分類とその診断法を示した書である。この書の問題点をあげればきりがないが、重要なのは作っている本人たちもその問題点の多くを自覚していることである。自覚して、その限界について同書の中にきちんと記載している。わかりづらいので簡単にまとめるとこの本には以下のようなことが書かれている。「一定の基準を満たしたものを一応、X病と定義しましょう。そうしないと研究が進まないから。実際にはその基準からは漏れるけれどX病である人も数多くいるでしょう。でもその人をX病と認めると境目が曖昧になって際限なく病気の定義が広がってしまうので、研究上はX病には含めないことにしましょう」。ここまで書けば、誤用は明らかであろう。ちなみにこのDSM-5の誤用は精神科以外の医師や、精神科医の中でもしばしば見られるものである。
せん妄によって幻覚が生じることがあるのは小川医師では30%程度、大西医師では20~50%であり、Aがせん妄基準に該当するとしても、直ちに、Aが性的幻覚を体験した可能性があることにはならない。(注:小川医師は一審、大西医師は二審で証言)
この部分はよく意味がわからない。前半で可能性(確率)を認めておきながら、後半で可能性を否定している。「直ちに〜にはならない」という日本語が、司法の専門用語で特殊な意味を持つ表現なのではないかとは思うが、それにしても意味が通らない。
それに続く「そこで、Aの状態を子細に見ると〜解することも可能である」の部分は完全に推測なので医学の領域を外れる。推測なので、そうである可能性もあるが、そうでない可能性もある、としか言えない。
麻酔の影響が抜けきっていないとも考えられるから、いささかふさわしくない言動をしても不自然、不合理ではない。
はい、その「いささかふさわしくない言動」をとる状態のことをせん妄状態と呼びます。
せん妄による幻覚が、多くの場合、経験者が記憶していないなど、記憶の欠損を伴うものであることに照らしても、Aの本件当時の精神状態をせん妄による幻覚として説明することは困難である。
前半は正しいが、「多くの場合」と言っているように少数例ではせん妄内容を詳細に記憶している。後半は本文で抜き出していない部分を含んでのことだが、内容の整合性が取れており、証言が生々しく、記憶が保たれていることは、せん妄状態下の幻覚を否定する根拠にはなり得ない。
(中略)Aの訴えるわいせつ被害がせん妄による性的幻覚であるとすると、Aは、上記の約17分間に、主治医である被告人が本件ベッド脇に来た時には覚醒していたが、その後せん妄に陥って性的幻覚を見、被告人が退出する際に再び覚醒するということを2回繰り返したことになる。
ここは恐らく裁判官の誤り。「覚醒していない(意識清明下でない)と記憶には残らない」と誤認している可能性。だから幻覚→覚醒→幻覚→覚醒を繰り返していなければ記憶に残らない、と考えているのかもしれない。
ここまでが、判決要旨の「原判決の問題点の指摘」とその判決要旨に対する私の「問題点の指摘」である。可能性、という言葉が多く出てくる。科学的にはPである可能性を指摘することは、Pでない可能性を指摘するのと同義である。それらを積み重ね、総合的な蓋然性を判断するのは司法の職域であると私は考えている。長くなってしまった。後半戦。以降は二審で証言した2名の医師の証言内容とその解釈が述べられている。それぞれの医師の業績や地位については触れない。それは科学とは異なる次元の話なので。
判決要旨への見解(後半)
井原医師の証言によれば、Aは、プロポフォールの半減期は6時間であり、せん妄に陥っていた可能性はあるものの、14時45分から15時20分頃は意識混濁が覚めていく途中であるとしている。
そう、その覚めていく過程がせん妄なのだ。DSMの基準に則るかどうかではなく。
Aはせん妄の背景因子を持たないので、時間経過とともに過活動型、混合型、低活動型、せん妄と評価できない状態に回復していく。(中略)「ふざけんな」と発言した14時45分頃は過活動型だが、看護師と会話をした14時50分頃にはそうではない。
前半部分。これは自信をもって誤りだと言える。なぜなら「回復していくことが多い」ではなく「回復していく」と書かれているから。例外は無数に存在する。そしてここでもう一点の大きな誤りがある。せん妄の型についてだ。せん妄の型というのは上記の「過活動」「混合」「低活動」の3類型に分類できるとされている。これは非常に大まかな概念で、興奮していることが多ければ過活動型、ぼんやりしていることが多ければ低活動型といったような類型であり、明確に「何時何分から低活動型が過活動型に切り替わりました」と言った概念ではない。興奮している患者さんも数分すれば落ち着いているかもしれないし、意識清明に近い状態かもしれない。その数分後にはまた興奮しだすかもしれないのだ。その部分部分を切り取って何型であるとか、そうではないとかいうことは臨床上無意味であるし用語の使用法として誤っている。
がん患者や高齢者のせん妄を、Aのせん妄に当てはめることはできない。
若年非がん患者の臨床的特徴が高齢者やがん患者のそれと異なるという主張はわからなくはないが、どの部分がどう異なるかの記載がない。これが先述の「背景因子を持たないので〜」を受けているのだとしたら、私の見解としては、「どんなせん妄にも共通する部分もあるし、異なる部分もあるので、追加の記述をお願いします」、というところ。
井原医師によれば、せん妄の可能性はあるものの、せん妄による性的幻覚を見たという可能性はなく
ここが多くの精神科医が一番首をかしげる所であると思われる。実際はどのような表現だったのだろうか。繰り返す。可能性は「ある」。
井原医師は酩酊に関するビンダーの分類とせん妄の分類を重ね合わせたが比喩であり、学界で承認された考えではないが、このことで井原医師の証言が損なわれることではない。井原医師は豊富な臨床経験によるものだから信用性が損なわれることはない。
ここは簡単にかたがつく。エキスパートオピニオンはエビデンスレベルが低い。エキスパートであることは信用性を十分には担保しない。
大西医師はせん妄の研究者であるが、がん患者、末期治療を中心によるもので、その証言を見ても小川医師と同様の見解を示すものである。このような患者を前提とすると低活動型、混合型でも幻覚があるとは言えるかもしれないが、若年で既往症のないAに対する井原医師の信用性に疑いを生じさせるものではない。
繰り返す。医師の経歴と科学的に判明していること、判明していないことは無関係である。反語的に「若年者の低活動型、混合型せん妄で幻覚は生じない」と言っているがそのようなエビデンスはない。
さらにAが身の回りを覚えていないことなどから、認識能力が損なわれたとするが、大西医師が依拠するAの証言は事件から2年以上経ってからであり、時間経過で記憶が薄れたり、曖昧になってきた部分があると考えられる。Aにとっては衝撃が大きく、記憶がないことは無理からぬことである。
そういう推測もできるがそうでない推測もできる。
LINEメッセージは周囲の状況と整合しており、手続き記憶であるとするのは飛躍がある。
これは正しい。手続き記憶とは、「自転車に乗れるようになると長期間乗っていなくとも乗り方は忘れない」というアレだ。「手続き記憶だからLINEメッセージを送ることは可能」、という証言をしたのであれば、それは誤り。流石に手続き記憶のみで文章を打ち込んで送るのは無理、というか手続き記憶の定義を逸脱している。意識障害下であっても合目的な行動は取りうるが、それは手続き記憶のみによるものではない。
せん妄が直線的に回復することはないとしたが、「昼と夜」「1日の単位」を念頭に置いている。せん妄があったとしても、他の疾患がなく麻酔からの回復の過程であったことからすると、せん妄が回復することが不合理であるとは言えない。
これも正しい。「せん妄が短時間で直線的に回復する」ことは確かに不合理とは言えない。ただ、「せん妄が短時間で変動しながら回復する」こともまた不合理とは言えない。
大西医師の証言は、小川医師に対する井原医師の批判がほぼ妥当し、井原医師の証言と比較して信用性が低いといわざるを得ない。
日本語の文章としてうまく理解できない。これも司法領域独特の表現なのだろうか。
(3)以上によれば、Aが本件当時せん妄に陥っていたことはないか、仮にせん妄に陥っていたとしても、せん妄に伴う幻覚は生じていなかったと認められるから、このことがAの原審証言の信用性の判断に影響を及ぼすことはないというべきである。
裁判官はこのような判断を下す職務であるので、その決定に私が個人的な見解を述べることはしない。
終わりに
さて、長くなったが、判決要旨の一部について、私の見解を述べた。私のコメント自体に、私の経験や思想など様々なバイアスが掛かっているので正しい部分もあれば誤っている部分もあるだろう。繰り返しになるが、ある可能性を指摘することは別の可能性が存在することを認めることだ。
Twitter上の流れを見ていると危機感を覚える。多くの医師が「私はこんなせん妄患者を経験した」と報告している。私も山ほど信じられない経験をしてきた。しかしそのことは、本件の真相と何の関わりもないことだ。
あなたがTweetすることは、医療職以外の人たちに対して、「あれはせん妄の症状である」、「これは冤罪事件である」と断定しているのと同様の作用をもたらす。しかし実際に医学的に言えることは「せん妄であった可能性もあるし、なかった可能性もある」ということまでだ。冤罪事件でなかった時にことも同時に想像してみてほしい。特に被害者のことを。
あなたが今このタイミングでTweetすることは、その内容が事実であったとしても、人々を誤った方向に導く可能性がある。専門家としてくれぐれも注意されたし。