『金木犀』
短編小説です。
フィクションです。
すっかり鼻を抜ける匂いが単純になり、目に入る光量が少なくなる。目の前を通る風の色も透き通ってきた頃のことだった。
平坦になったその景色の間に、傲慢にも割り込んでくる香りが鼻をついた。
甘ったるいその香りは、どうしてか人を惹きつける。その香りの根源に居座ったまま、その場から動けなくなっていた。
日が沈みかけているのを横目に、目の前のベンチに腰掛けた。
昼間なら小さなオレンジに見えるはずのその花は、今この時だけは黒光しているように見えた。その小さな花は不覚にも私の視界のほとんどを覆い尽くしていた。
黒く光るその花は、ゆっくりとでも着実にその葉の色と同化していく。やがて一切の色を失った一株の低木は、甘ったるい香りを漂わせるだけの非常に不安定なものに、私には思えた。
「こうして、全て、わからなくなっていく...」
確かに目の前にあったはずのものが忽然と姿を消す不安。今でもあるのではないかという期待。しかし、この手でその実体を掴み取ることはできない焦り。
その葛藤と焦燥が心の中を乱した。
半ば諦めにも似た感情から、視界から実体を排除した。
その直後、肩に触れる実体を持った感触で我に帰った。
「金木犀ですか。」
そういった彼は私の隣に腰を下ろした。私の方を一瞥したあと、おもむろに私の方に近づいて、頬を親指で拭った。彼の手は震えていた。
震える手を止めようと、彼の手に自分の手を合わせたとき、初めて自分の目からこぼれているものの正体を知った。
「時間は...抗うこともできずに進んでいく。だから美しい?...そんなの綺麗事。」
不安定になった私の手は彼のニットの袖を掴んだ。
「変化は皆怖いものです。その恐怖に抗わないこともまたひとつです。どう抗おうとしたところで、時間は進むし変化は訪れる。」
突きつけられた現実は私には重たすぎる香りを纏っていた。
「現状維持には、全力で走る必要がある。...赤の女王のセリフ。」
「そう、進む時間の中でその場面を切り取って再現することは、思ったよりも難しいことなのです。」
そんな理不尽な。できていたことが、感じられていたことが、この手からこぼれ落ちていく。どれだけの代償を支払えば私の元に戻ってくるのだろうか。
......いや。どれだけの代償を支払っても尚、戻ってくることはないのであろう。
それは、今、目の前で感情を隠そうとしている彼もまた同様に。
朝焼けの赤い光と、それが映し出す甘い香りの黒い低木を横目に、手にはニットと彼の暖かさを感じながらその場を後にした。
※フィクションです。
では、次の機会に。