『胡蝶の夢』
胡蝶の夢
私が蝶なのか、蝶が私なのか。
夢か現実かわからない儚さの喩えでもある。
いつもそう。周りは雨。僕はもう濡れることを気にしなくなり、ある種の気怠さを覚えながら、何処かへ向かって歩を進めている。
いつものbar。そこにももちろん色はない。どこで、色という概念を覚えたのかすらあやふやなほどに僕はモノクロなその世界に馴染んでいた。金属と思しき冷たいドアノブの感触に一瞬のためらいを感じながらも、扉を開け、カウンターに腰掛けた。
「ジン・トニックを...」
目の前のグラスを手に取り、ここにきた目的を思い出そうと思考を反芻する。
思い出される光景は雨、雨、雨。
僕は、記憶の断片を呼び起こすごとに、そのえも言われぬ圧迫感と不安から、酒を煽った。
今日もまた、目的を思い出すより先に視界が揺らぎ始めた。
「ここまでか...。」
店を出た後、暗い夜道は隙間なく歩く人の声と人間特有の不快な臭いに包まれていて、その雑踏から逃げるように路地に入った。おぼつかない足取りで自宅に戻る。その間も雨が止むことはなかった。
自宅のドアは静謐を保っており、それは廊下、部屋の中も驚くほど同じようであった。明かりはつけず、ソファに腰掛けながら、外の雨の様子を見るように窓の外を見た。そこには1匹の勿忘草色に染まった蝶が雨宿りしているのが見えた。部屋の中に招き入れようとしたその刹那に蝶はふらふらと雨の中に、その姿を消した。
「おはようございます。」
僕の目が最初に捉えたのは彼女のアーモンド色の目であった。
「うなされていらっしゃるようでしたので...温かいココアでもいかがですか?」
「...夢......だったのか。それとも...」
余程うつろな目をしていたのだろうか。彼女の白い温かい手が僕の右手に重なった。
「私はここに...」
僕は右手に視線を移した。ベージュのソファに黄緑色のブランケットがかけられているのが背景に見えた。そしてもう一度、彼女の目に視線を持っていこうとしたそのとき、鈍い痛みとともに、脳裏に1匹の勿忘草色の蝶が浮かんだ。僕は好奇心から、その蝶の行先へ思いを馳せた。
もう一度眠ってしまえば、あの蝶のようにどこかに飛んでいってしまえるのだろうか。そして身を滅ぼすことができるのだろうか。
「この世は、実在するのでしょうか。」
「...わかりません.......ただ...」
「...」
「幻想でもいいのではないでしょうか。こうやって温度を感じていられるのですから。それだけで。」
夢現に意味はないというのだろうか。いささか疑問に思ったが、それを問う前に体が重く感じられ、彼女の体温を右手に感じながら、もう一度目を閉じてしまった。
「胡蝶の夢。いと儚し...」
※フィクションです。
では、また次の機会に。