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【落ちこぼれの僕を救ってくれたのは…】

【こちらの作品は以前pixivで上げた小説を移行したものです。noteの方で公開してpixivは非公開にさせて頂きました。理由は、pixivは台本だけにしようかなっていう気持ちからです。ブクマしてくれた方や、閲覧くださった全ての方には感謝しております。拙い文章を読んでくれてありがとうございます。】

※この作品はDom/Subユニバースです。
作中に出てくるGlareは僕なりの解釈となっております。
Sub目線で話は進行します。
初めて小説として書いたので記念に。



天井に取り付けられた満月のようなシーリングライトをぼんやり見上げながら、鳴ることが無いと分かりきっているスマホに耳を傾けている。
時刻は午前1時。明日も仕事だと言うのに一向に眠れず、もう何度も寝返りを繰り返した。
右へ左へ、視点を動かしても見知った自室の中では何の変化も得られず、ただ時間だけが無常に過ぎていく。
こうなってしまっては自分ではもう、どうする事も出来ない事なんて嫌でも分かってしまう。
形式的に閉じた瞼の裏で、恋人の顔がチラつく。
たった一言、眠りなさい。そう言ってくれさえすればDomである彼女の言葉に従って簡単に眠りに落ちることが出来るのに。
だが、多忙を極める彼女にそんな事を頼めるほど甘え上手では無いことを23年間生きていて自覚している。
己から助けを求めなければ、テレパシーが使えるという特殊能力を秘めていない限り彼女には気付かれない。
今頃、仕事の疲れを身に纏ってベッドへ深く沈んでいるだろう。
この部屋には幸いにも、時計が無い。
もしあったならば、あの不快に近いカチカチ音に苛まれる所だった。
実家にはそれがあって、こうして眠れなくなってしまった夜にカチカチと言う音を無意味に数えて朝を迎えたこともあった。
寂しい。声が聴きたい。何度もそう思いながら耳を傾けてもやはり鳴らない。
くだらない期待を捨てて朝を迎えてしまえば良いのに。
こういう時ほど、時間の流れは遅く感じてしまう。
もう一度、眩しさに目を細めながらスマホを見る。
1時15分と表示されたその画面がとても憎らしい。
訳もなくLINEを開いて、恋人からの最後に送られたメッセージを表示させる。
そこには確かに、おやすみ。と書いてありこのLINEが今夜は鳴らないという証拠としてそこに刻まれていた。
無駄だと分かっているが1つ試してみようか。
暇を弄んだ結果、自身でも嘲笑いたいくらいくだらない事を思い付く。
まず、彼女の声を思い出す。
いつも優しく愛情深く名前を呼んでくれる愛しの声を。
それから、彼女が言ったと想像する。
「ゆっくり眠りなさい。私はここにいるから。どこにも行ったりしない。安心して瞼を閉じて?」
想像して思ったことは彼女はこんな口調で話さないだろうと、そしてあまりにも無意味な妄想だったと溜息を吐いた。
身体が、心が彼女を欲している。
彼女の甘さを知ってしまってから、強くあろうとする事をやめてしまった。
貪欲に愛を求めていく自分に、Subの性分が染みついているのだと感じる。
早く…その声で…その手で…。


第二次性徴と共に現れる、性別とは別の属性。所謂ダイナミクスと呼ばれる第二の性がこの世には存在する。
ダイナミクスの意味は”変動する事象や状態を表す言葉”から来ているらしい。
それまで普通の人間として生きてきたのに、急に大人になる準備としてまずこのダイナミクスが訪れる。
親や学校から説明されたときは、よく分からなかったが簡単に言うと支配したいという欲望を持っている人間がDomと言われるらしい。
そして対比して、支配されたいと願う人間がSubだと聞いた。
だが例外もある。このDomでもSubでもないどこにも属することなく成長し続ける人間をNormalという。
この3種類に人間は振り分けられ、その後の人生に大きく関わっていく。
年齢が若ければ若い程、その与えらえた属性に戸惑い使い方を間違える。
まず中学生の時はスクールカーストで一軍に所属するDomがSubを対象に「施し」という名目でいじめを始めた。
Domに威嚇、威圧されるとGlareと呼ばれる眼力が放出されるらしく、それに当てられたSubは「従いたい」という欲求が溢れ出す。
Domから放たれる言葉は全て命令と受け取り、自身がどれだけ嫌だと足掻こうとも体が勝手に反応する。
まずはパシリから始まり、暴力、Subを使ってNormalの人間に対して攻撃をしかけることもあった。
何故なら、Normalの人間はDomがいくら命令しようともそれに従う事に強制力が発揮されないからだ。
だから、人数有利で圧倒的な力を見せつけてくるDomは次第にNormalの人間を追い込んでいく。
だが、Subの人間には欠点があった。
信頼関係が構築されていない状態で長期的に命令され続けると、Sub Dropという状態に陥る。
こうなってしまうと、自身ではどうする事も出来ないくらいパニック状態になったり、精神的に苦痛を伴って心が死んでしまう状態になる。
そうなれば、ロボットのように自我を失いながら命令を聞き続けるか、はたまた自死を選ぶ人間も居たり、その症状は人それぞれだ。
簡単に言えば、好きな相手からの命令ならそうはならない。
例えば、恋人からだったり、信頼している先生だったり。
そういう相手が傍に居てくれれば、Subは安心して生活が出来る。
何とも、不便で生きにくい性質だと思う。
僕も何度かSub Dropを引き起こした事がある。
幸いにも、保健室の先生がDomであり、僕はこの先生に日頃からお世話になっていて絶大な信頼を寄せていた。
人生で初めて、Commandを使われたのもこの人だ。
「またやられたのね…Come」
クラスのDomが言うような乱暴な言い方じゃなく、優しくて温かくてまるでお風呂にでも入ってるかのような感覚が脳から心に伝達されていく。
「そろそろ、どうにかしないと…君みたいな子たちがどんどん増えてる…。皆が皆、私の言葉で回復するとは限らないから…」
先生は頭を撫でながら、眉毛を下げて力なく笑った。
「君はなんにも悪くない…大丈夫…」
「でもこれだけは覚えといて…Domが全員悪い人間だなんて思わないで…。こんな風に君の事を受け止めてくれる人が必ず居るから…」
そう、先生は言ってくれたけど結局大人になってもそんな人は現れなかった…。
高校時代も、大学時代も…。
どうして僕はSubなんだろうか。
Normalの人間なら、こんな想いしなくて済んだのに…。
これまで出会ってきたDomはSubの事を見下して、まるで奴隷のように思っているような薄汚い人間ばかりだった。
何か反論すればGlareを使って脅迫し、思い通りにさせようとCommandを吐く。
従いたくない、けれど身体は勝手に動いてしまう。
Sub Dropを何度も起こして、その度に病院に運ばれて治療を施される。
貰った薬も、副作用が強くてうまく扱えなかった。
次第に副作用にすら恐怖を覚えて、いつしか落ちこぼれのSubだと自覚するようになったのだ。
医者は、必ず貴方に合うDomが居ます。
諦めないでください。などと励ましてくるが一向に現れない不安感でまたDropを引き起こしてしまい、何度も入退院を繰り返した。
ダイナミクス専用病院として各県に1つ、設置を義務付けられたこの場所はSubだけが集まっているわけでは無い。
同じ割合、とまではいかないがDomもまた何らかの悩みを抱えてこの病院を訪れる。
大方、欲望を制御するための抑制剤を処方してもらうためだとは思うが。
抑制剤…特定のパートナーを持たないものが暴れないようにする為の薬であり、これを使用せずに生活していると意志に反して支配欲が体を襲い、放置すれば理性を失い不特定の人間を襲ってしまうのだ。
Normalの人間で言うなら、強姦と同じ扱いにあたる。
両者合意の元でなければ如何なる理由があろうともSubに対してPlayすることは禁止されている。
また、僕のようなSubにもこの抑制剤は必要で、これがなければ精神状態、体調面が悪化してしまう。
どちらも、パートナーさえ居ればこんな薬など必要ではないのだけれど。
人口の約4割程度しか存在しないとされるDomとSubが全員パートナーを持つというのは理論上不可能だ。
Normalの人間と恋をすることは出来ても、この欲望を緩和することは出来ない。
それでも、Normalの人間と添い遂げようと思うのなら副作用の強いこの抑制剤と一生の付き合いをしなければならないのだ。
僕の体にはこの抑制剤の副作用が強く出るらしく、早急にパートナーを見つけた方が良いと医師には言われている。
恋人でなくても、信頼のおけるDomを見つける事。
そうは言われても、学生時代に嫌という程されてきた仕打ちを考えるとDomというだけで警戒してしまう。
皮肉な事に、世界で一番嫌いなDomが傍に居なければ僕は満足に生活することもままならない。
待合室の椅子に座り、床に視線を落としながら無意識にため息が零れた。
今日はひと月に1回ある定期健診の日。
主に担当医との面談と、副作用が比較的軽い抑制剤を処方してもらうために順番待ちをしている。
入退院を繰り返したせいか他の人よりここに来る頻度が高く、もう見知った顔もチラホラ見かけるくらいには常連なのだ。
例えば…他の女性よりも少し背が高くロングの茶髪が光を浴びて綺麗に見えるあの人。この数か月で何度か見かけたことがある。
華奢な体が服の上からでも分かるくらいスタイルが良く、ここで出会っていなければ恋をしたかもしれないと思えるくらいタイプの女性だった。
ここに居る以上、あの女性もSubかDomかのどちらかでしかない。
割合的に、女性はSubであることが多い。
僕にパートナーが見つからないのはそんなところにも原因がある。
ぼんやりと彼女の背中を見つめていると受付を終えたのか振り返り、そしてパチリと目が合った。
その瞬間、僕のこめかみに電気が走るような感覚がしたかと思うと体が金縛りにでもあったかのように硬直する。
そして突然ふわりと、宙に浮いたような感覚が体を襲う。
言いようのない気持ち…ふわふわとしていて気持ちが良くて…。
なんだか、温かいモノが心を覆っていく。
視線が外せない。彼女もまた、僕から視線を外すことなくただ僕の顔をじっと見据えているような気がした。
何秒、いや何十秒経っただろうか。
急に視線を外した彼女は、俯きながら僕から離れた場所にある椅子へと腰掛けた。
そうして、僕の金縛りが漸く解けたころ放送で番号が呼ばれていることに気が付く。
慌てて、指示された部屋へ入ると担当医が少し驚いた顔でこう告げた。
「今spaceに入ってませんか…?」
「は……いえ…そんなことは…ありません…」
担当医のおかしな発言に首を傾げようとしたとき、突然言いようのない不安と焦燥感が胸を覆った。
この感覚は良く知っている…。Sub Dropだ。
慌てる担当医の声が近く感じる。
身体を包まれ、過呼吸のように苦しくなる僕の頭を撫で始めた。
「ゆっくり…呼吸して。大丈夫。君はいい子だよ…。そうゆっくり…。Good 、よく出来ました…」
「僕は…一体…なんでSpaceなんかに」  
困惑する僕に担当医は自分のデスクに戻ったあと、顎に手をやり考え始める。
しばらくその様子を見ていれば、漸くその手が顎から外れて今度はキーボードをおもむろに叩き始める。
「Spaceというのは、本来Domから命令されてそれをSubが遂行、その後に行うアフターケアの最中に引き起こす症状なんです。Subは満足感、幸福感に包まれてその間は、目の前のDomしか見えなくなる状態…とでも言いましょうか。まさにそういう状態だと思います。しかし、そのSpace中に何らかの理由でDomがSubのケアを放棄した際、主を失ったSubはSub Dropに陥ってしまうんです」
まさしく今の貴方のように…。そう告げられたが僕にはよく分からなかった。
そもそもここは病院で、Domと会話した覚えもなければ命令なんて論外だ。
なのに何故…。段々と冷静になっていく思考の中で、1つだけ思い当たる事が出てきた。あの女性だ。確かあの女性としばらく目が合った後に、なんだか金縛りのような感覚に襲われて…。事の詳細を僕は説明する。
「なるほど…。もしかしたら、その女性は強いGlareを発したのかもしれません。しかし…それだけでSpaceにまで陥るなんて…。従いたいと思う事はあっても…」
「そうなんですね…じゃああの女性はDom…。僕女性のDomに出会ったのはまだ2度目です。中学生の時の保健室の先生がそうでした…珍しいですね」
「まぁ…居るには居るんですよ?ここの患者さんにも勿論。確かに男性と比べると数は少ないですが。今までそんなに出会ってこなかったんですね。そうなると…考えられるのは…」
担当医は、棚から分厚い資料を取り出してページを捲る。
その資料にはダイナミクスの事がきっと大量に書かれているんだろう。
ページごとに色違いの付箋が張り付けてあるのが見てとれた。
「あった…。長い間DomとPlayをせずに抑制剤で耐えてきた人の実験事例なんですけど…。Domの強いGlareに耐性が無く、1回のGlareで完全に服従した事が認められているケースがあります。本来は信頼関係が無いとSub Dropを引き起こしますが、この方はそれもなく、至って健常状態だと。なので、もしかしたら中学生以降女性のDomに出会えず精神的に飢餓状態だったのかもしれません。それで多幸感に襲われてSpaceに陥ったのではないかと思われます…」
「なるほど…それじゃあ…女性からGlareを向けられたらあんな風になってしまう可能性があるんですか…」
「否定は出来ません。ただし、今こうなって多少免疫と言いますか…凄く酷い状態になる事はしばらくは無いと思います。でも、また何か月、何年と期間が空いてしまえば同じ症状が出てしまうのではないでしょうか。前にもお伝えしましたが、抑制剤が体に合わない以上、早めにパートナーを見つける事が最善策かと思います。簡単な事ではないとは思いますが…」
これで何度目かのアドバイスに心の中でため息を吐く。
パートナー…僕の事を受け入れて愛してくれる人が果たしているのだろうか。
Domを毛嫌いしているSubなんて、煩わしいだけじゃ…。
そもそも、僕自身が…Domを愛せるのかも分からない。
分からないけど…いよいよ自身の体が限界を感じていることを目の当たりにして
もう選択の余地など残されていないのだと悟った。
診察室を出て、会計を済まし処方箋を持って薬局のある場所まで歩く。
病院の敷地内に立っている為、そこまで遠い距離ではないが昼間の太陽があまりにも眩しくて少し億劫に感じてしまう。
夏まであと2ヶ月はあるというのに長袖では、うっすら汗をかいてしまうほど気温が高い。
出来るだけ陰のある所を探して歩いていると、前方にあの茶髪の女性が見えた。
彼女もまた、足取りを追えば薬局に向かっていると分かる。
正直、あんな風になってしまった後だ。出来れば鉢合わせしたくはないのだが、目的地が同じならいくら歩幅を縮めてもいずれ出会ってしまう。
仕方が無いと腹を括り、そのままのペースで歩き続けた。
薬局内はそこまで広い訳ではなく、彼女と僕以外に2、3人の患者が居るだけでそこそこ窮屈さを感じる。
店員に処方箋を渡し、椅子に腰かけるように指示された。
運が悪いのか彼女が座っている席の隣しか空いておらず、僕は平静を装いながら静かに座る。
ポケットに入れていたスマホを取り出し、SNSをチェックすると凛とした声が右耳から聞こえ始めた。
「あの…先程は…どうもすみませんでした」
驚いて、スマホから視界を移せば彼女が心底申し訳なさそうに謝罪している。
咄嗟の状況に、言葉が出ずしばらく見つめていると彼女はもう一度、すみません…と頭を下げた。
「え、あの…いえ。な、なんのことでしょうか…」
彼女が何に対して謝っているのか分からず、ただ困惑というよりは恐怖さえ感じてしまう。
僕が彼女のGlareでSpaceに陥った事を知っているのは担当医だけなはずで。
彼女が気付いているのかまでは僕には分からなかった。
「その…あたし、男性でSubの方を見たのは初めて…では無いんですが…何というか…お医者さんや行政の方以外でという意味では初めてだったんです…」
「あっ…そうだったんですね…確かに男のSubってあんまり居ないですよね…?」
「なので…咄嗟にその、見つめてしまって…あれは事故だったんです!Glareを出すつもりなんて無くて…」
彼女が少しだけ語気を強めたことによって、狭い店内で響くその会話に周りの患者が訝しげにこちらを見ているのが伝わった。
もう、大丈夫ですから。と伝えると彼女は小さく縮こまりながら何度も頭を下げ続ける。
僕にとって、こんなに申し訳なさそうに弱々しく振舞うDomが居るんだという驚きが勝って、彼女の謝罪する姿が物珍しい動物を見た時と同じように映ってしまう。
その後、お互い処方された薬を受け取り店の外へと出ると再び彼女が話し掛けてきてくれた。
「本当にすみませんでした…」
「いえいえ、本当に大丈夫ですから…気にしないでください」
「ありがとうございます…それじゃあ…」
僕に背を向けて歩き出す彼女の背中を見ながら本能的に彼女を帰しちゃいけないような気持になっていく。何故かは分からない。ただ気持ちが、心がそう呼びかけてくる。
「あの…!」
彼女を呼び止めるのに必死で、その後に続く言葉を用意していない。
振り返って困った顔をする彼女に、僕は何と言ったのだろうか…。
でも、この時確かに感じたんだ。
僕の中にある分厚い氷が割れる音を確かに聴いたのだから…。


カーテンの隙間から漏れる陽の光で目が覚めた。
どうやら僕は力尽きていつの間にか眠ってしまっていたらしい。
少し眠たい眼を擦りながらスマホを見るとLINEの通知が一通届いていた。
〝おはよう。今日仕事が終わったら、そっちに行くね。最近忙しくて全然会えてなかったもんね。寂しくさせてるよね…。今日はたくさん甘えていいからね″
読み終えると、昨夜抑え込んでいた感情が爆発しそうな気がしてくる。
甘え下手な僕の事をあまりにも分かっている彼女に降参のポーズを取りたくなってしまう。
今夜会えると分かった途端に、元気になってしまう単純さに苦笑しながら荒れ果てた部屋をどう片付けるかの算段をしなければならない。
いくら付き合いが長いからと言っても、この部屋に彼女を呼ぶわけにはいかないだろう。
そういえば、酷く懐かしい夢を見た気がする。
彼女と初めて出会った病院での出来事。
あの時は、こんな風に付き合えるなんて想像もしていなかった。
ただ、縋るように彼女に告げた言葉で始まった僕たちの関係。
落ちこぼれだったSubを救ってくれた…今でもそれは感謝している。
だから…出来れば彼女の負担になりたくないとも同時に思っているのに。
どうしてか、やはり彼女から言葉をかけられるとそれに全力で縋りたくなってしまう。僕の甘さと彼女の優しさが程よく合わさって表現のしようがない幸福に包まれている。
「早く…会いたい…」
誰も居ない一人暮らしの部屋にそれは静かに零れ落ちた……。
20時。僕の部屋のチャイムが待ってましたと言わんばかりに鳴き声をあげた。数分前にもうすぐ着くと彼女から連絡があった為玄関に向かって勢いよく走りより、扉を開ければ愛しの彼女が笑顔でそこに立っている。
「おかえりなさい」
「ただいま。そんなに勢いよく走ってこなくてもいいのに。バタバタ~って音して笑っちゃった。そんなに待ちきれなかったの?」
「待てなかった…。早く入って…」
彼女は尚も笑いながら、はいはいと子供をあやすような口ぶりで玄関で靴を脱ぐ。
部屋を見渡して、相変わらず綺麗だね。なんて言われると日中頑張って片づけて良かったと胸を撫でおろす。
今日、僕の仕事が休みで良かったと心底思った。
もし、仕事だったら確実に間に合わないくらい寂しさと虚しさで荒れた部屋を彼女にお披露目することになっていただろう。
「お腹空いてる?」
その彼女の言葉に返事することなく、僕は黙って抱きしめた。
食事なんて後でいい。今は、僕の心を貴女で埋めて欲しい。
早く…その声で、その手で…。一秒でも早く…。
「ふふ…。Kneel(ニール) 抱きしめ返すより…きっと今はこっちの方がいいのかなって思ったんだけど…どう?」
彼女の視線がペタンと座り込んだ僕に注がれる。
一週間以上振りのCommandに心が満たされていく。
何もかもお見通しだよ、なんて余裕そうな顔が物語っている。
いつまでも、これからも彼女にこうやって僕は甘やかされていく。
「Good。しばらく会えなくてもちゃんと私の言う事が聞けて偉いね。今、何して欲しい?」
僕の中で、この質問が毎回苦手な事を彼女は分かっている。
甘えるのが得意じゃない事なんて、もう知っているはずなのに彼女は飽きもせずにその口で告げてくる。
今日こそは…そう思うのに。僕の口は一向に開けずにいて。
しばらくの間の後、お決まりの命令が鼓膜を揺さぶってくる。
「相変わらず、キミは自分の気持ちに素直になるのが苦手だね。でもそんなキミだからこうして私が口を開かせてあげることが出来る。Say」
「ん…あの……僕の事抱きしめて?…キス…したい…」
「Good。いいよ、じゃあベッド行こうかな」
そう言って彼女は昨日まで僕が一人で寂しさを抱えて眠っていたベッドに腰掛ける。膝の上を叩き、そうして綺麗な声で僕を呼ぶ。
「Come。おいで。たくさん甘やかしてあげるから」
その命令で僕の体は吸い寄せられるように彼女の胸元へと誘われる。
ふわり、と彼女の甘い匂いが鼻孔を掠め優しく包んでくれる。
中学生の時、保健室の先生から感じた優しくて温かくてまるでお風呂にでも入ってるかのようなあの感覚の何倍以上もの幸福が瞬間脳裏を駆け巡る。
パートナーから言われるとこんなにも違うのかと、改めて感心してしまう。
昨夜の寂しさはなんだったのか、こうされる度に普段からもっと甘えられたならと思い直す。出来もしない後悔をあと何度繰り返すのだろうか。
「Kiss。ん。いい子だね。私が居ない間も一人で頑張ってたんでしょう?本当に偉いよ。頑張りすぎて壊れないか、そこだけが心配だけどさ」
「大丈夫…こうして貰えたら…僕まだ頑張れるから…」
頑張って欲しくないんだけどなぁ、なんて少し呆れた声が頭上に降り注ぐ。
話してはキスをして、抱きしめて。彼女の柔らかくてしなやかな指先が僕の髪をすきながら撫でてを繰り返す。
もう何度も行ってきた行為が僕の体に染み渡っては溶けて爆ぜる。
これから行うPlayに期待を膨らませながら身を委ねていると、彼女の動きがピタリと止む。
「Stay。このまましてあげたい気持ちはあるけど…その前にちゃんとご飯食べようね。キミ、ロクなモノ食べて無いんでしょう?どうせ」
心配と悪戯な声が混ざった様子で僕の頭を小突く。
一人暮らしで、コンビニで済ますことが多い僕の食事面を彼女はいつも心配して時々料理を教えてくれることもあった。
けれど、仕事の忙しさで疲れて帰る僕に料理をするスタミナは正直あまり残ってはいない。
頻繁に家に来てくれる時は、彼女が作り置きをしてくれることもあって凄く助かっている。
「ごめんなさい…最近はずっとコンビニだった…」
「やっぱりね…少し落ち着いたでしょう?先にご飯作るから、大人しく待ってて。……出来るよね?」
「はい…待てます…」
「ふふ…いい子。じゃあその間お話しようね。寂しくなんてさせないよ?」
僕の心の内を全部見透かして先回りしてくれる彼女にこうやってずっと救われ続けていく。
「今日…夢を見たんだ。僕たちが出会った頃の夢。薬局の前で僕が声をかけたの覚えてる?」
彼女は少し目を丸くしながら懐かしそうに微笑んだ。
覚えているとも、いないとも言わないがきっと覚えてるんだろう。
それで?と続きを促されぽつりぽつりと話し出す。
鮮明な記憶ではないけれど…これは僕にとって忘れる事の出来ない記憶の1つ。
あの日、あの場所で声を掛けなければ今の僕は居なかったと思うから。

【一時的でも良いんです…。僕のDomになってくれませんか…?】
【僕は抑制剤の副作用が強く体に出てしまって…軽めの薬を処方されてあまり効果が出ないんです。だから…医師からは特定のパートナーを作るように言われています。初対面の貴女にこんなことをお願いするのはおかしいかもしれないけれど。貴女に見つめられたとき、僕はとても幸せに感じました。Sub Speceに入るくらいに】
【そんな人に、もう出会えないかもしれない…。僕はきっと貴女に…尽くしたいんだと思います。こんな僕じゃダメですか…。落ちこぼれの僕じゃ…ダメでしょうか…】
「私は、キミに出会えて良かったと思ってるよ…。じゃなかったら、今頃私もキミも…壊れていたかもしれないからね…」
そう呟きながら手際よく食材を切っていく。
野菜を愛しそうに見つめながら彼女もまたあの時を思い出してるのだろう。
【私は…貴方の事を大切に出来るか分かりませんよ?私の事を何も知らない貴方の事を傷付けたくない…です】
【私が抑制剤に頼っているのもパートナーが見つからないからです。他の人より私は力が強くて…抑制剤でも抑えられない事がたまにあります。さっきのGlareもきっとそのせいです。でも、それを理由に貴方に命令するのは違う…。そんな自分勝手なDomに私はなりたくないんです】
【どうして…泣くんですか…貴方は落ちこぼれなんかじゃありませんよ…そんな風に自分を傷付けないで…】
「最初は確かに情だったかもしれない…。キミの泣き顔を見ていると不思議と守ってあげたくなる気持ちが出てきてた…。でもそれは一時の感情かもしれないと思って、その時は連絡先だけ交換したよね」
「そうだったね…。まさか連絡が来るとは思わなかったけど」
「これでもかなり悩んだんだから…。本当にキミにCommandを使っていいのか…一時だけでも、って言われたけど一度でもやってしまったら依存していくんじゃないかなってね」
それでも…と彼女は言葉を続ける。
野菜に落としていた視線が僕の両眼に注がれて、僕の好きな彼女の笑顔がそこにはあった。
「キミの泣き顔が頭から離れなかった。何度忘れようとしても無理だった。これは一時の感情なんかじゃないんだって自覚したの。だから、試してみようと思った。キミが私に感じた気持ちを、私はキミに感じる事が出来るのか…。結果は当たりだったみたいね」
彼女が僕に初めてCommandを使った日。
彼女は僕に対して、強く甘やかしてあげたいと思ったらしい。
緊張で震える僕の頭を優しく撫でて大丈夫だよと何度も声をかけてくれた。
もし、これで捨てられたらどうしようと思う僕の心の弱さをゆっくりと、されど確実に守ってくれて。
Look、と言われたときの彼女の瞳は真剣そのもので。僕の事を真正面からぶつかろうとしてくれてるのが伝わった。
「捨てられた子犬みたいな目をしてくるのは、今でもズルいなって思ってるけどね。あんな顔されたら…手放したくないって思っちゃうじゃない」
「そんな顔してたかな、僕」
「してた!絶対してたもん!…でも時間はかかったけどこうやって付き合うことが出来て…一時の関係じゃなくなった。今では世界で一番キミのことが大好きで愛しいと思ってる。キミの勇気のお陰だもん。感謝してるんだよ?これでも」
僕だって…そう告げた時、グツグツと鍋から沸騰する音が聞こえてきた。
彼女は勢いよく野菜を放り込む。
鍋の中で野菜たちが彼女の菜箸によって転がされていく。
まるで、僕の姿そのものを見ているかのようで。
僕はこれからもきっと、彼女の掌の上で幸福という名の鍋の中を泳いで生きていくんだろうなと思った。


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