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星と、これから、の話
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第1章 これから、の話
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ひかりは、あの星が、丸だと思った。
だから、夜空からあの星をもぎ取って、自分にも、取り込んでしまおうと考えた。
部屋の窓から見える星を、つまむ。使うのは、決まって、人差し指と親指だった。右利きだから右手の。しかし、ポロッと、星は、簡単に取れてしまう。一等星だった。彼女は、それを丸めて、赤らんだ自分の右耳に、入れ込んだ。
右耳突発性難聴。
彼女がそう診断された夜だった。
夜空は、私たちに、星と丸の話をしているのだと、気付いた夜だった。
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「あの星をさぁ...こうやってぇ...グイーーっと引っ張って取ってさぁ...私の右耳から入れてね———」
部屋の窓からのぞく夜空を、遠近法を使って、弓矢の弦みたいに引っ張ったひかりは、人差し指に乗せた空想の一等星を、赤らんだ自分の右耳に入れ込もうとした。
星を、人差し指と親指の間でコロコロと丸める時、ひかりはいつも、指先が輝いていて、それでいてあったかいな、と安堵する。
なのに、彼女は、ただ苦しくて、泣いていた。
的のない不純な動機で放った矢は、希望の方向へ飛んでゆくはずはなく、すぐそこへ落ちてしまう。
それと同じ放物線で、彼女の身体も収縮し、それでも、先生見てて、次はできる、と綺麗な丸を懸命に描こうとする園児のように、泣きながら、たどたどしく言葉を続ける。
「できるんなら、私はね、これから...スタアになりたい。そう、絶対なりたいんだよスタアに」
そう言いながら、ひかりは、首に巻かれたままにしていたマフラーを力無く掴み、自分の頭の上まで覆い隠した。
ベッドの上で体育座りをし、白いマフラーに埋もれたひかりは蚕で、木造の薄暗い6畳1間は彼女を飼っている蚕部屋に見える。
片隅に立て掛けたアコースティックギターは、ただ何も言わず、小さく丸くなった相棒を悲しそうな顔でうかがっている。
ひかりの身体は、園児が両手で掴んだクレヨンみたいに、小刻みに震えていた。
そうして、彼女は、ほぼ18℃の肌寒い部屋の中、また痛々しく、糸を紡いでいく。
「ママにも、彦にも、かえでにも、おじいにも、おばあにも、これからいっぱい楽しい思いをさせてあげたいの...。有名になってね、お金を稼いで、みんなの生活を支えられるようになりたい...。ママにもう働かなくても大丈夫だよって...言ってあげたいの...それでね...」
ひかりは、それでね、と言った後、口から言葉が出てこなくなった。こらえた嗚咽で、喉の奥が痛む。
うずくまっていた顔を、やっぱりマフラーの中から出して、顎を自分の膝に乗せ、窓下にある背の低い本棚を、ひかりは見る。
その目は、どこにも焦点が合っていない。
瞳の奥の正気のない真っ黒なブラックホールが、今にも彼女自身を吸い込んで、無くなってしまいそうだった。
ひかりの意識が、重たくなった頭の中へ、いざなわれる。夜空を見る時、小さな頃から、やってしまう癖だった。
———肌が白いのは今の時代受けるんだけど、ビジュアルがもう少しなぁ...。背格好が低いのも...。あと、曲作りのセンスが無いんだよ...。
彼女が所属する音楽事務所のプロデューサーからの陰口が、想像力を餌に肥大し、ひかりの心の形を変えていく。
ひかりは、まだ、地上から逃れられなかった。
———来週までにトレンドに沿った新曲作ってきて。できる時は毎日路上ライブして。ファンつけるために毎日SNSに何かしら投稿して。
髭のプロデューサーから、毎日、電話で、言われる。
形に、なろう、として、形が、分からなくなった。
それでも、ひかりは、何かに取り憑かれたように、必死で無茶苦茶なリクエストを追いかけてきた。
シンガーソングライターとして沖縄から上京して3年、それが彼女の日常だった。
右耳突発性難聴。
今日、そう、医者から診断された。
右側が無音だったことに、ひかりは、気付いた。いつからだったのだろう。ひかりは、分からなかった。
病院から家に帰ってきてすぐ、ひかりは、星の話を始めたのだった。
ひかりは、空に、逃げ場を、探したのだった。
「それでね......それで............もう...」
ひかりの瞳からこぼれ落ちる泪が、マフラーにしみを作り、ポツポツと吸収されては、一瞬にして消えてゆく。
ポツポツと吸収されては、消えてゆく。
それを見ながらひかりは、自分の歌、みたいだなと思った。
ピカン。
少し間をおいて、ピカン。
布団に放り投げていたひかりのスマホ画面に、細長い灰色の通知が2つ浮かび上がる。ひかりは、スマホに飛び付く。
———やっと1件。これで、1000人。
ひかりが、さっきインスタグラムにあげた路上ライブの投稿に"いいね"が付き、1人からフォローされた通知だった。
"いいね"を付けた人、フォローしてくれた人のユーザーネームを見ても、その人が誰なのか、ひかりは分からなかった。
そのまま、通知欄上にあるスマホ時計の1:11が目に入ったひかりは、朝、朝食を作り終えてそのままにしていた台所の絵に、我に帰される。
荒くなった波を、無理やり奥の方にグーっと、押し込めた。
———丸でなきゃ。頑張らなきゃ。スタアにならなきゃ。頑張らなきゃ。
右側が塞がっている分、頭の中で発する自分の声が、反芻して響く。
ひかりが、ふぅと一呼吸置いて、
両手で紅潮した自分の頬をバシンと叩き、
よしっと、気持ちを立て直そうとした時、
口を開かずに、ずっと、ひかりの言葉だけを聞いて、側にいてくれた和也が口を開いた。
「ひかり...今日も遅くまでお疲れ様」
和也は、何事も無いように、振る舞う。
「うん、ありがと、かずくん...」
ひかりは、右腕で、泪を拭った。
「ひかりは毎日頑張っているよ——」
そう言う和也の瞳から、外の明かりを黄色く反射させたビーズのような泪がツーっと頬を伝ってこぼれ落ちる。
一緒に上京してきて3年。ずっと側で支えてくれたパートナーのかずくん。
———かずくんのためにも私が。
ひかりの拳にキュっと力が入る。
「ありがとう......かずくん......でも、私がもっと頑張んなき——」
「でも、今のひかりは、ひかりじゃない別の星になろうとしていない?」
和也が、立ち上がって行こうとしたひかりの手首をギュッと掴み、引き留めて言った。
今まで触れた事のない和也の強い語尾に、ひかりは少し驚き、何も言えず力む。
いつも最後まで話を聞いて頷いてくれる和也が、今日はわたしの言葉を遮ってでも伝えたいことがあるのだと、その意味をひかりは察した。
「——————」
「遠くの方にあるあの星達を見て......自分もああならなきゃって......みんなを背負って、あんな風に輝かなきゃって———」
和也が指でなぞった空は、曇っていて、星なんて、どこにもなかった。
「ちがうの、私がスタアになれば———」
「ひかり———」
また、和也が、ひかりをさえぎる。
しかし、その数秒後、ひかりの察したその意味を遥かに超えて、和也の小宇宙がもっと大きくて、優しいことをひかりは知ることになる。
「——————」
和也が、そっとひかりの方に身体を向け、両手でひかりの両耳をそっと塞いだ。
そして、穏やかに。
「ひかりが何をしようと、どうなろうと、みんなひかりのことを愛しているよ。ひかりはひかりだよ」
「———愛してる?私は...私?」
一瞬、何を言われたのか理解できず、ひかりは言葉を繰り返すことしかできなかった。
鼓膜を通り、鼓動を包んだまま、口へと移動した単語。両耳を塞いでくれた手のぬくもりが温かい。
カチッ。
ひかりの意識と現在世界を留めていた金具が、はずれる音が聴こえる。
言葉は時に、時間と重力を止め、その数秒の間に、自分がこれまで忘れていた世界に還るための宇宙船をこしらえてくれる。
特に、大切な人の大切な言葉が造るその船は、するりと大気圏を越え、今まで見ていた世界が、本当は世界では無かったことに気付かせてくれることさえある。
その飛行体験は、興奮と安堵感と少しの不安が伴う、自分の中の小宇宙が広がる瞬間でもある。
「うん。ひかりは、ひかり。次は、心の声を聴くんだよ———」
ひかりにとって今回が、人生2度目のフライトだった。
「——————」
和也が小さく頷く。
「私.......もう...............もう———」
「——————」
愛だけが漂う無重力の間が、ほら、とひかりの背中をそっと押した。
「もう...苦しい......。私、苦しい。かずくん、私...。もう、これから、どうしたらいいか分からないの、もう......逃げ出したいよ、ごめんなさい———」
今まで溜め込んでいたすべてのモノが出ていこうとするように、ひかりは、力いっぱい泣いた。
「謝らなくていい、分かってるよ。ビッグバンは、時間が経って届くんだ」
和也は、そう噛み締めて言って、ひかりを力強く抱き寄せた。
「ありがとう———」
ひかりは声をあげて、ぐしゃぐしゃになって泣いた。
窓からは、蜘蛛の糸のような月明かりが差し込み、ひかりの足元を照らす。熱かった。
その糸は、ひかりのそれも巻き取り、これから始まるとある小説の1行目のような力強さをまとっていた。
ひとしきり泣いた後、2人は、ベッドの背もたれに身体を預けながら、空中のシャボン玉に、言葉をほおるように言葉を交わす。
「いっぱい泣いたね。泣いたねというより、泣けたね」
笑いながら和也が言う。
「小さい子じゃないんだから、馬鹿にしないでよね」
そんなことより、横にいるパートナーの顔が泣き腫れ、お互い横を見ると、それが可笑しくて笑っちゃう。
「ふははははっ」
本棚上の置き時計は、2:22を示している。
「ひかり、朝までやってる喫茶店があるから、そこ行ってみよ」
和也が、背もたれから起き上がりつつ、スマホの画面をひかりに見せながら、言う。
「ここ私もずっと行きたかったんだよね。でも、今から?もう遅くない?」
「遅いとかないから。ほら、行くよ」
和也は、突発的に布団から飛び起きる。
時々、彼の小宇宙は、弾ける。
弾けると、気体になる。軽くなる。
「えー、ちょっと待って、ちょっと待って。ちょっとは化粧とおしゃ———」
「化粧とかお洒落なんていいから、いいから」
和也は、ひかりをベッドから引きずり出そうとして、言う。
抵抗はするが、そんな彼のスモールバンがひかりは大好きだった。だから。
「わかった。じゃあ、ちょっと待って」
何やらひかりは改まる。
「待てない」
そう言いながらも、和也は好きな男の子にちょっかいを出す少女のようなひかりに気付いて、待った。いつものやつね。
「ちょっと見てて」
いたずらにそう言いながら、ひかりは、布団の背もたれにグッと身を沿って、両腕を前に出し、バイクのハンドルを握るみたいにして、にやり。
「ひかりっ!いっきまーす!!」
そう言い放って、ひかりは、シャーッと、窓のカーテンを閉めながら、勢いよくベッドから飛び出して、和也の前で、大胆に踊った。
「アムロ!コアファイターじゃん!」
そう突っ込んだ和也も、
「ガンダムだよぉ!」
そう突っ込んだひかりも、床に膝をつき、笑い転げた。
そして、
「ベッドから自分で出れるし。すっぴんでも、喫茶店行けるし」
「そうやな、偉いっ。すっぴんでも、お洒落してなくても可愛いよ」
そんな2人の会話を聴いた世界も、微笑んだ気がした。
「かずくん、私、決めた」
そんな世界に後押しされてか、ベッドから出て、踊って、床に膝をつき、笑い転げた後、ひかりも、弾けた。
「何を?」
和也は、何の気無しに聞き返す。
分かってる。
「私ね、今の事務所辞めることにする」
ひかりは、覚悟が決まっている顔をしている。
清々しかった。
「うん。分かった。俺はいつでも、ひかりが決めた道を応援するよ」
和也も同じく、覚悟が決まった顔をしていた。
「私、ここから始まるの」
世界もそんな顔をした、気がした。
そのまま2人は玄関へ向かった。
2人は、宙に舞うように、ドアを開け、水素とかヘリウムのように、玄関をふわりと出た。
外へ出ると、夜空には、まんまるの月が浮いていた。
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第2章 星の話と日常喫茶
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「こんなに良い喫茶店が、こんなに近くにあったんだね。目の前に来てみるまで分かんなかったや」
和也が、重厚感のある銅の扉を右腕でグッと開ける。
年季の入った扉の中央には、壁面から伸びる鮮やかな緑色をしたヘデラのつると、それに見え隠れする年季がかった『日常喫茶』という文字が、照明でほんのりと照らされている。
「『日常喫茶』って地続きで、なんかいいね。楽しみ」
和也が、軽く返しながら、店内へ入ってゆく。
コロン、コロン。
扉に付いたベルが鳴る。見極めと歓迎が共存する音色。その音を聴いて、ひかりの緊張が増した。
それでも、和也の後ろをぴったりついて、入り口をくぐり抜けた。いつもの形で。
「壁見て。映画のポスターがこんなに。すごいね」
和也が小声で言う。感動している。和也は、大の映画好きだ。
『日常喫茶』内へ入ると、細い入り口が数歩分続き、その細い入り口壁一面に、映画のポスターが壁いっぱい、天井までも所狭しと飾られている。
数あるポスターの中で、ひかりの目に留まったのは、左壁面に貼られた映画『インターステラー』のポスターだった。
——必ず帰ってくる。それは宇宙を超えた父娘の約束。か。
「いらっしゃい」
喫茶店のマスターらしき男性の野太い声が、奥から聞こえてくる。この空間の店主は、マスターと呼びたい、そう思わざるを得ないかっこいい空間だった。
細い玄関を数歩入っていくと、広くはないが、左奥に2人用のソファ席が2席、その手前に1人用の机席が3席並び、右側にどっしりとカウンターがこしらえてある。そのカウンターの中で、マスターが慣れた手つきでコップを拭いている。
机やカウンター、ソファ椅子は濃い茶色で統一され、それらの空間を暖色の照明が照らしている。こだわりをひしひしと感じた。
「こちらへどうぞ」
2人は、髭のマスターに、カウンター席へ案内された。白シャツに黒いジレと蝶ネクタイ。ピシッと決めている。店内には、ひかりと和也の2人だけだった。
「ありがとうございます」
と和也が交わしながら、4席あるカウンター席のうちの真ん中の2席に、2人は座らせてもらった。
「お二人は初めてのご来店ですね?」
座ってすぐ、マスターから尋ねられた。野太いが、声色はどこか真っ直ぐで優しい。
「そうなんですよ、家が近くてずっと来たいと思っていたんですけど、佇まいが、そのぉ、、隠れ家的だったので、入りずらかったというか、、。でも、今日は頑張って来てみました。こんな時間にすみません」
和也が、目の前に置かれた、デザインの効いたメニューに目を移しながら、たどたどしく言う。その目は、焦点が合っていなさそうだった。
それを感じながら、和也も緊張していたのか、とひかりは安心した。和也とマスターの会話を遠くの方で羨ましく思いながら、ひかりもメニューに目を移す。メニュー1つとってもアート作品のようだ。
「いえいえ、"初めて"っていうのは、誰でも緊張するものですよ。行ってみないと、入ってみないと、分からない訳ですから。ご来店ありがとうございます。もし良かったら、お二人の名前を聞いてもいいですか?」
2人が『日常喫茶』に入店してからいくぶんも経っていない。それでも、和也とひかりは、このマスターに触ってみたい、と強く思わされた。神社に祀られているあの神木に出くわした時の、安心感と空に抜けるような広がり方だ。そんな人が、身近にいる。2人は、また、泣きそうになった。
「僕が、作本和也で——」
ひかりは、大人の男性が、怖かった。頻繁に、父親に暴力を振るわれていたトラウマからだった。夜、酔っぱらって帰ってきた父親に、罵倒され、殴られた。母親も一緒に、髪を引っ張られ、殴られた。5kgの米袋を投げられたこともあった。
ひかりが6歳の時、父親は家を出て行った。それでも、ひかりの脳内には、その時の情動記憶が深く刻まれ、今も、男性と、夜空が怖かった。
和也はそのことを知っていて、大人の男性から、ひかりをいつも遠ざけてくれていた。
しかし、ひかりは、マスターにだったら近付いてみたいと思えた。まずは、近付くところからでいい、と。土から顔を出す、根っこも踏まないように、慎重に。意を決して。
「私は、天野ひかりです——。マスターの名前はなんというんですか?」
ひかりの名前も同時に伝えようとしていた和也は、さえぎって、自分の名前を自分で伝えたひかりにびっくりした。そして、マスターからの返答を待った。和也は、落ち着かず、もらった水の入ったコップをくるくると回している。
「かずやくんとひかりちゃん。お二人とも素敵な名前ですね。私の名前も聞いてくれるんですか?——」
「はい」
名前を聞いただけなのに、少しためたマスターの間に、2人は、固唾をのんだ。
「——私は、木村拓哉です。喫茶店のマスターをやっているかたわら、国民的アイドルもやっています——」
2人は、呆気に取られた。びっくりを通り越して、意味が分からなかった。
でも、理解が追いつき、数秒遅れてやってきた笑いが、緊張とともに2人の身体から思い切り抜けていった。
「ふははははっ」
「マスター、アイドルもやってるんですか!?」
和也は、少し続いた笑いが収まって、肩の荷が降りた勢いで、図々しく友達のように、マスターに聞き返す。
「最近、解散しちゃったんだけどね——。っていうのは冗談で。私は、工藤あつしです。この『日常喫茶』を20年やっています。よろしくね」
そんな図々しさの存在なんて、1ミリも感じさせない。マスターも豪快に笑っていた。
そんな大木の歴史が生んだ『日常喫茶』のマスターと空間に、2人はその深さに包まれた。
「工藤あつしさん。素敵な名前ですね。よろしくお願いします!」
ひかりは少しだけ何かを乗り越えられた気がした。しかし、唐突に。
「ところで、ひかりちゃんは、今日嫌なことでもあったの?もしかして、和也君に泣かされた?」
ひかりと和也は、また、意表をつかれた。和也が、もらった水を吹き出しそうになっている。
「え、何でですか?」
ひかりは、見ていたメニューを置き、とっさに、聞き返した。
「いや、マフラーがそんなに濡れてるからね。ずかずかとごめんね、言いたくなかったら言わなくて大丈夫だからね」
ひかりは、さっき、ぐしゃぐしゃになって泣いていた時に、マフラーを巻いていたことを思い出した。
「そっか、これ、恥ずかしいな——。うーんと、ちょっと——。苦しいことがあったんですけど、聞いてくれますか?」
「泣くことは全然恥ずかしくなんかないよ。私で良ければ、何でも聞きますよ」
ひかりは、神社でお参りをする時のように、昨日までのことを話した。
「私、シンガーソングライターをやっているんですけど、全然有名とかじゃないですが。それで、音楽事務所に所属させていただいていて、でも、そのぉ、ずっと、しんどくて。しんどいとか言っちゃダメなんですが、私弱いから、心の限界がきちゃって、それで昨日病院に行ったら、右耳突発性難聴と診断されちゃって。自分が弱いのはわかってるんですけど、それで——。でも、売れてスタアになりたくて、だから、これからその事務所をやめるってことを、和也くんと話をして決めました。すみません、話がごちゃごちゃしてて」
大人の男性への自分からの自己開示。ひかりにとって、人生で初めての経験だった。しかし、マスターはうんうんと静かに相槌をうって、話を聞いてくれた。
「いえいえ、話をしてくれてありがとうございます。そんなことがあったんですね。それは本当にキツかったですね。事務所にいる人とか環境が凄くきつかったんですね。それで、右耳突発性難聴というのは、それはそれは——。ゆっくり安静にして治してくださいね。そして、ひかりさんは決して弱くないと、私は思います。むしろ強いと思います。ちゃんと向き合っているのですから。苦しんで俯いた分だけ、自分の中の宇宙と向き合って、人の痛みにも寄り添えるようになると思いますよ。そんなひかりちゃんが作る曲は、いつか誰かの宇宙へ届くようになりますよ、絶対」
「あ、ありがとうございます」
「ごめんなさいね、宇宙とか突然言っちゃって、私、天文学が凄く好きなんですよ。変な人じゃないですからね」
「いえいえ、マスターの中の宇宙は、自分には理解できないほど、広いんだなと思います」
「そんなそんな。ありがとうございます。メニューはいかがなさいますか?」
「あ、すみません。話に夢中になっちゃって、まだ注文してなかったですね。じゃあ、私は、カフェオレでお願いします!」
「僕も、カフェオレでお願いします!」
マスターとの会話は、湖に小石を投げ入れて、その小石がどこまでも深く沈み、癒されていく。そんな不思議な感覚だった。
「その事務所を辞めると決断できたのは良かったですね——。事務所を辞めて、これから、はどうするんですか?」
マスターが、カフェオレを2人に1つずつ丁寧に出しながら、話を続ける。マスターの動きは、よどみがなく、怖いほどスムーズだ。
「そうなんです。でも、これから、の話は全然決まってなくて——。それが物凄く不安なんです」
マスターは、ひかりのそれを聞いた後、コップを拭いていた手を止めて、少し上を向き、考える素振りで止まった。
和也が、ごくりとカフェオレを飲む。
少し考えた後、マスターが口を開いた。
「ひかりちゃんは、惑星ってどうやって出来るか知ってる?」
「———わく、わくせい?」
3度目の正直が負けて、呆気に取られたひかりが、あほうみたいに発した、「惑星」という言葉が宙にコロっと転がった。
わく、わくせい———。
和也がひかりの真似をして笑って、その後ひかりが釣られて恥ずかしそうに笑う。マスターも微笑んで、そのまま続けた。笑いながらも、2人は最大の集中をマスターに向けた。
「まずは、ひかりちゃんの言う、スタアっていうのは、何かな?偶然、さっき冗談を言った時に名前を出したけど、木村拓哉さんはスタアかな?」
「はい!木村拓哉さんは、スタアだと思います!」
「それは何でかな?」
「うーんと、SMAPとしてアイドルもやってて、俳優としても映画とかドラマ、バラエティ番組とか、たくさんテレビにも出てて、とても有名だし、お金も持っていると思うし、何よりみんなからスタアと呼ばれているからです!」
「じゃあ、ひかりちゃんは、シンガーソングライターとして成功して、たくさんテレビに出て、とても有名になってお金持ちになって、みんからスタアって呼ばれたいってことかな?」
「それは———」
それは、で、ひかりは止まった。マスターは、ひかりが考えるのを待った。そして、ひかりは、途切れ途切れに続ける。
「本当のことを言うと、分からないんです。遠い将来とか未来とか、これから、の話は何も見えないんです———。小さい時は、何も分からず、ただシンガーソングライターとして有名になってお金持ちになりたい!テレビに出てる人を見て、あんな風になりたい!と思って、みんなに言ってもいたんですが———。年齢を重ねるにつれて、年齢のこととか労働のこととか、いろんな現実的なこととかを考えるようになって、本当になれるのか、とか自分に才能は無いんじゃないか、とかを考えるようになってしまって、分からなくなって、日々に忙殺されて、ただ考えないようにしていた気がします。ちゃんと聞かれると、本当にそれがしたいことなのか、スタアになれるのか、分からないんです」
ひかりは、また、俯いた。
「そっかそっか。ひかりちゃんは素直だね。じゃあ、質問を変えるね。シンガーソングライターとして、歌は作りたいし歌いたいの?」
たくわえた髭を触りながら、マスターは楽しそうに、ひかりに聞く。
「はい!歌は作りたいし、歌いたいです!」
ひかりは、俯いた顔を上げて、それまでとは、うってかわって元気に答えた。
「なんで歌は作りたいし、歌いたいの?」
「うーんと、いろんな理由があると思うんですけど、歌を作ること、歌うことは、ただ楽しいんです。没頭できるし、気持ちが良いんです。人に聞いてもらって褒められるのも嬉しいです。なぜって改めて聞かれると、人に納得してもらう理由はないんですが、絶対歌は作りたいし、歌いたいんです」
ひかりの答えにも、よどみはなかった。
「うん。そっかそっか。人に聞かせる理由なんて無理やり作らなくていいと思うよ。むしろ、理由なんて無くていいとも、私は、思う。ただやりたい、から、やる。それでいいと、私は、思う———。じゃあ、歌は作って、歌えたら最高だね」
「でも———。これ!っていう将来の目標が無いといけない気がしてもいるんです。その目標や夢があった方が頑張れるというか、成功者の方はみんなそう言ってる気がするし———」
「うんうん。凄く分かる。シンガーソングライターとして有名になってお金持ちになる!っていう目標ではダメなのかな?」
マスターは、腕を組み変えながら、一緒に考えてくれている。和也も、側でひかりの横顔を、見守る。
「うーん———。もっと具体的じゃないといけないのかなとか。ずっと考えてはいるんですが、本当にこれだ!という目標が見つからなくて」
「そっかそっか。そうだよね。めちゃくちゃ分かる。私も若い時、そういう時期があったよ———」
「そうなんですね。なんか、工藤さんにもそういう時期があったって聞くと、なんか希望が湧いてきます———」
「じゃあさ、今できるやってみたいことはあるの?例えば、こんな曲を作りたいとか」
マスターの質問は、頭を撫でられるようで、温かい。
「うーんと。改めて考えると、今やりたいことは、たくさん出てきますね———」
「良かったら、聞かせて欲しいな」
マスターは、ワクワクしていた。和也も胸が躍る感覚を覚えた。ひかりも徐々に、楽しさを増して。
「うーんと、まず、事務所のプロデューサーさんから却下された曲もリメイクしてリリースしたいし、あとは、故郷の沖縄のライブハウスでライブもしたいし、あとあと、MVも短編映画みたいな感じで、曲に込めたストーリーを詰め込んで、作りたいんです!そのために、お金が必要だから、バイトを頑張ってお金を貯めています!まだまだ、やりたいことは山ほどあります!」
「そっかそっか。いいね。やりたいことがたくさんあるんだね。じゃあ、今は、考えるのがしんどかったら、遠い未来のことなんか、見ようとしなくていいと、私は思うよ。どのくらい有名になるかとか、売れてどうこうとか、どんな規模でライブしたいとか。見なくていいと思う。今やりたいことを一つ一つやっていったらいいと思う。そしたらね、自ずと見えてくると思うよ」
「今やりたいことを一つ一つやっていく———」
「今は、自分の宇宙と向き合って、今やりたいことを一つ一つやる時期。そう考えると、軽くなるでしょ」
「たしかに。軽くなって、どんどんやりたいことが見えてきました!」
「うんうん。ひかりちゃんは、素直だね。それでね、さっきの惑星のでき方の話なんだけど———」
ひかりのあほうで、どこかに転がって行ってしまったと思っていた惑星の話が戻ってきた。
「はい!」
待ってましたというように、2人はグッとカウンターに前のめりになって話を聞く。マスターは、ためて、放つ。
「厳密にいうと、自ら光を放っているのは"恒星"なんだけど。恒星ってね、宇宙に漂うガスや塵からなる分子雲が自らの重力で収縮することで誕生するんだよ」
「へ?」
和也が、あほうのような声を出す。マスターは、大事な話をする時、ふざけて、1度軽くする。笑いながら、でも、真剣に、マスターは続ける。
「簡単に言うとね———、恒星は、宇宙に漂うガスのような気体などが、グイーーーっと集まって、固まっていって、できるんだよ」
2人はまだマスターが何を言いたいか分からなかった。それを分かってて、マスターは、ためて、恒星のでき方の話を続ける。マスターは楽しそうだった。
そんなマスターの話に、2人はどんどん引き込まれていく。
「ひかりちゃんの話と重ねてみるとね、ひかりちゃんが恒星になる時っていうのは、ひかりちゃんが星になるために必要なものが、グイーーーっと集まって、固まっていくんだ。集まってくる気体などは、小さいかもしれないし、大きいかもしれない。その時は、恒星になるために必要無いと思うかもしれないものもある。でも、恒星が作られる時っていうのは、必要なものが、たくさん集まって、徐々に星として、形作られていくんだ———」
「うんうん」
2人は相槌を打って、続きを待った。マスターは、またコップを手にとって、拭きながら、続ける。
「必要なものっていうのは、例えば、人脈もそうだし、お金だってそうだし、何かやりたいことに繋がるチャンスの話もそうだし、仲間やファンも、みんなそう。全部が徐々に集まって、恒星が出来上がっていくんだ」
「そうなんですね!」
和也は話の意味が全然分からなかったが、分かった気がしたので、大げさに、相槌をうった。
「待ってね、待ってね。大事な話は、ここからで、星ができる時、ガスなどの気体を集めるのは何だったかな?」
和也は、高校の時の、嫌いだった科学の授業を思い出した。
でも、先生が楽しそうだから、和也も楽しいと思った。
「はい、先生!重力です!」
ひかりは、即座に手を挙げ、回答する。その目には、キラキラと光が灯っている。
「ひかりさん。よく覚えていましたね。そう、ガスなどの気体を集めるのは、重力。つまり、引きつける力のことですね」
マスターも、ノッてきて、先生を演じ、話を続けた。
「ひかり!すごい!」
和也が、関心して、ひかりを褒めた。
「そして、重力、つまり、引きつける力の構成要素はたくさんあるんだけど、その中でも1番強い構成要素は、なんだと思いますか?ヒントは、木村拓哉さんにもおおいに働いているし、今この瞬間も働いているよ」
和也とひかりは、首を傾げながら、考えた。
———なんだろう。
「———先生!はい!先生や木村拓哉さんのように、イケメンであることですか?」
和也がふざけて答える。クラスに1人は居る、先生のよいしょをする生徒。
「それはそうなんだけどさぁ」
マスターもまんざらではなさそうだったが、コホンと立て直して、授業を続ける。あぶない、あぶない。
そして、ひかりが、今度は、恐る恐る手を挙げて答える。
「キタイですか?」
「おお、ひかりさん凄い!天才だ!そう!キタイ自身なんだ!よく分かったね———」
本当にびっくりした顔をして、マスターも、ひかりを褒めた。和也も横で関心して、分かったように頷いている。
「木村拓哉さんにも、マスターのこの『星の話』にも、すごく引きつけられて、それって何でだろう?って考えるみると、やっぱり、私は凄く"期待"をしているんだなと思って。人を引きつけるのは期待だと思いました。あと、マスターがずっと、気体、気体と言ってくれていたので」
「ひかりちゃんはさすがですね。そう、重力の構成要素は、期待。言い換えると、ワクワクなんです———」
「重力。人を引きつける力の1番の構成要素は、ワクワク———」
ひかりは、マスターの言葉を、噛み締めるように反芻する。
「そう。ひかりちゃんのワクワクは、恒星を作るために必要なものを引きつけてくれるんです。さっき、ひかりちゃんが自分の今やりたいことの話をしている時、私とかずやくんも引きつけられていたでしょ?それもやっぱり、ひかりちゃんのワクワクに引きつけられていたんです。だから、ひかりちゃんのワクワクすることをやっていたら、どんどん応援してくれる人も、仲間も、お金も、仕事の話もいろんなものが集まってきて、次第にそれが大きくなっていくと思うよ。恒星ができるのに要する時間は、数1000万~数10億年の時が必要だから。ゆっくり焦らず、自分のペースでね」
ひかりは、嬉しかった。少しずつ胸に絡まったものがほどけていったから。
「ありがとうございます。工藤先生の、星の話、凄いです。もっと聞いていたいです!」
「分かりました———。もう私の授業も終盤ですが、次は、みなさんお待ちかねの、"スタアのなり方"についてです———」
「スタアのなり方———」
ひかりの身体に力が入った。自分が望んでいる正解、が分かる気がしたからだった。和也も、固唾をのんで、聞き入った。
「でもね、スタアのなり方っていうのは、嘘でね———。"スタア"っていうのは、他人が光り輝く恒星のことを見つけて、そう呼ぶだけなんだ。他人が恒星に名前を付ける。ただそれだけなんです」
「え?」
ひかりは、思ってもいなかった答えに思わず声を出してしまった。
「アーティストとして曲が売れたり、何か賞を獲ったり、俳優として映画やドラマに出たり、何か雑誌に取り上げられて、メディアに出た人を誰かが見つけて、この人はカッコいい!可愛い!綺麗!この人の活動に触れていると楽しい!この人はやってくれるんじゃないか!応援したい!この人の言葉は響く!そんな、人々の期待が高まった時、人々がその人をスタアと呼び始める。スタアというのは、他人から評価されて呼ばれる愛称のことなんです。綺麗な星があった時、写真に写して、インスタグラムのストーリーに上げるようにね。ただ、それだけなんです」
「——————」
「今の時代、自分で自分のことをメディアに上げることができるから、それはおおいに活用した方がいい。ただ、それだけにとらわれないようにね。他人の評価ばかり気にして、自分がワクワクできていなかったら、重力なんか生まれないからね。厳密に言うと、他の構成要素を使って生まれるんだけど、ワクワクしてたいじゃん?」
ひかりは、言葉が出なかった。また、宇宙船に乗って、フライトに出ていた。ひかりにとって人生3度目のフライトは、まだまだ続く。2度あることは3度あるの完全勝利だ。
「それじゃあ、先生の話を踏まえると、ひかりは、俺にとってのスタアだと思います」
堪えきれなくなった和也が、口を開く。
「うん、そうだね。その通り。先生にとっても、ひかりちゃんは、スタアだよ。工藤あつしも、ひかりちゃんの大ファンだ。その数をただ増やしていけばいいんだ。だからね、これからのひかりちゃんにとって1番大事だと思うのは、ひかりちゃんが自分のワクワクを大事にして、それを一つ一つやり続けることだと思うんです。ひかりちゃんのこれからに、物凄くワクワクしていますよ!——よし、今日の先生からの『星の話』の授業は以上!」
和也とひかりは、思わず、拍手をしていた。
「先生、ありがとうございます!今日の『星の話』ちゃんと家に帰って、復習します!」
和也が優等生を演じて、言い、そうだな、偉い、とマスターが返す。
「あ、言い忘れてた。もう1つポイントがあって、"自分のワクワクしていることを人に言っていく"ってことも大事です。さっき、ひかりちゃんとかずやくんが言っていた、『ワクワクせい、ワクワクSAY!』だね。そうすると、聞いた人がヒントをくれたり、必要な仲間が集まってきたりするからね!」
「ワク、ワク、SAY!———」
和也とひかりは声を揃えて唱えた。そして、今日、『日常喫茶』に来て、マスターに出会えたこと、『星の話』を聞けたことは、偶然ではなく、必然なんだと思った。
「星が消えてなくなる時は、温度が高くなりすぎる時だから、期待を集めるのもほどほどにね。なんちゃって」
コロン、コロン。
また、マスターが冗談を言っていると、扉のベルが鳴り、誰かが入店して来た。
「お、なみっちゃん!久しぶりだね〜、いらっしゃい!」
マスターが、親しみを込めて、来店してきたお客さんを呼ぶ。
和也とひかりも、扉の方に目を移した。
マスターからなみっちゃんと呼ばれるその若い男性は、小柄で長髪で、ダウンにスウェットというラフ着だった。いかにもな雰囲気を醸し出している。
「お疲れ様でーす。お、マスター髪切りました?いつ見てもダンディですねぇ」
「またまたぁ。今日は何にする?いつもの?」
「はい、いつものでお願いします!」
なみっちゃんは、慣れたように、奥のソファ席に座り、純文学を読み始めた。
「あ、なみっちゃん!今日ね、初めて来店してくれた、かずやくんとひかりちゃん!なみっちゃんが今年24歳だから、多分、なみっちゃんと同い年くらいだよね?ひかりちゃんは、シンガーソングライターとして活動してるみたいだよ!仲良くしてね!」
「あ、ひかりちゃんとかずやくん。初めまして!波瀬光一と言います!みんなからはなみっちゃんと呼ばれてます!好きな作家は、川端康成と中河与一です!よろしくお願いします!」
なみっちゃんが、元気良く自己紹介をしてくれたので、ひかりと和也も続く。
「私は、天野ひかりです!よろしくお願いします!」
「僕は、作本和也です!よろしくお願いします!」
マスターは、そんな3人を見守って、仏様のように微笑んでいた。そして、3人にアシストする。
「そういえば、なみっちゃんの前回の個展、凄く反響あって良かったねぇ。あ、なみっちゃんはね、小説とか詩を書いたり、写真を撮ったりしてて、この前、この『日常喫茶』で、なみっちゃん初めての個展を開いたの。テーマは、『あなたの魂は何色ですか?』っていうテーマ。面白いでしょ?そしたら、たくさんの人が個展に来てくれてさ。そうそう、今、あそこの壁に飾られてる写真とあの詩は、なみっちゃんが古典を開いた時に作った作品で、面白いから見てみてね」
「へー!個展開いたんですね!なみっちゃん、凄いですね!ちょっと見てみよっと」
ひかりがひょいっと、カウンター席から移動して、机席の後ろ側の壁面に展示されているなみっちゃんの作品を見にいく。和也もそれを真似した。
「え!僕の作品見てくれるんですか、ありがとうございますぅ。ちょっと恥ずかしいけど、頑張って作った作品なんで、ぜひぜひ」
なみっちゃんは、本を閉じて、そわそわしながら、自分の作品を眺めてくれている和也とひかりを見た。
「え、この詩も写真も全部なみっちゃんが書いて、撮ったんですか?え、この詩のこの言葉———」
そう言った後、ひかりは何も言わずただ作品に引きつけられていた。
———時に、過去かな。怖いと思っていた点と点は、天を使って、やがて、線となり、やがて、星になって、自分の中へ帰ってきて、安らぎをくれる。時に、逃げてもいいんだよ。でも、その逃げる処は、常に。落ちてしまおうと思う処へではなくて、最後は、明日も生きようと思える処へおゆきなさい。波瀬光一
ひかりは、気が付くと、なみっちゃんの詩を何度も読んでいて、泣いていた。お父さんの顔と言葉を思い出していた。優しい顔と言葉。
———ひかりは歌手になりたいんか。ひかりのやりたいことをやりたいようにやったらいいんだよ。
ひかりが6歳の時、人生1度目のフライトだった。
「なみっちゃん、ありがとうございます。心が軽くなりました。なみっちゃんの作品は、なんというか、優しいです———」
「ううん、ひかりちゃん、こちらこそ読んでくれてありがとね」
なみっちゃんも泣いていた。
和也も泣きそうになっていた。和也とひかりは、一緒になみっちゃんの隣のソファ席に移動した。
「ひかりちゃんは、シンガーソングライターとして曲作りとかもしてるの?良かったら聴かせて欲しいな」
和也からもらったティッシュで、涙を拭いた後、ひかりは、持っていたカバンの中から、イヤホンを取り出して、スマホに指し、ファイルに入れてある自分の曲を、なみっちゃんに差し出した。
ひかりも、なみっちゃんと一緒で、自分の作品を見せると、そわそわして落ち着かなかった。なみっちゃんは、目を閉じて、イヤホンの奥に集中している。数分間の沈黙があった後、なみっちゃんは、口を開いた。
「いや、ヤバいね、ひかりちゃん。ヤバい。これは、ヤバい。マジで、ヤバい」
ひかりを泣かせた詩を書いたはずの作家はどこかへ飛んでいき、なみっちゃんの語彙力はバカの高校生のようになっていた。
「ありがとう。なみっちゃんの詩もやばかったよ」
俺も聴かせてと、マスターも、ひかりのスマホを手に取って、数分間のイヤホンの旅を終え、これまたダンディがどこかへ飛んでいった、バカの高校生のように、ヤバいを連呼していた。そして、またアシストをかます。
「ひかりちゃんの歌を、なみっちゃんが小説にしてみたら、面白いんじゃない?」
「それ、めっちゃ思ってました」
となみっちゃん。
「私もそれ、考えてました」
被せて、ひかり。
「俺もそれ、考えてました」
同時に、和也。
「それな!」
4人とも、『日常喫茶』が、そう叫んだ気がした。そして、マスターがまとめる。
「決まりだね。ひかりちゃんの曲をリリース、その後、なみっちゃんが小説化。眩しいねぇ」
「マスターありがとうございます。めちゃくちゃ楽しみになってきました」
なみっちゃんがこれまた元気良く、マスターにお礼を言う。
「かずやくんは何をするの?」
そして、ニヤニヤしながら、マスターが和也に尋ねる。ひかりは、分かってる。
「俺は、その小説と曲をもとに、短編映画を撮ります!俺は、不言実行タイプだったんですが、マスターの『星の話』を聞いて、言ってみようと思いました!」
「それな!」
宇宙がそう叫んだ、気がした。
『日常喫茶』という名前の星座を眺めて、どこかの誰かが「綺麗だね」と元気をもらうことがあるんだろうか。
私たち、ここから始まるよ。
ひかりと、和也は、会計を済まして、『日常喫茶』を後にした。
「先生の前では、ああ言ったけど、ひかりは、俺にとってのスタアだけど、ひかりは、やっぱりひかりだよ」
「うん。分かってる。かずくんも、私にとっての、スタアだけど、かずくんはかずくんだよ。これからもずっと、側にいてよね」
「うん、側にいる」
2人が外へ出ると、空には、朝日が昇っていた。
星と、これから、の話。 完