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「あなたたちのおかげです」 4年 宇宿 響世

「入りー!!!」

試合もノートも入りが大事かなって思ってとりあえず叫んでみました。

こんにちは。今回ノートを担当させていただく、鹿児島実業高校出身、日大唯一の中学生、宇宿の響世です。

正直何書いたらいいかわかんないし、文を書くことが苦手すぎるので元々書かないつもりでした(てへぺろ)。しかし、青木晴揮(4年/変な焼きそば野郎)がノートを書けというので、普段ふざけまくってる僕が少しだけ真面目に書きます。ダラダラとした文章になってしまうと思うので、暇な人は読んでみてください。





それでは、よーいどん。






「よっしゃ、頑張ってくるわ」



そう言って鹿児島から東京に飛び出てきた。当時はコロナ真っ只中で周りを見渡すとマスクが当たり前だった。

入寮日はあいにくの大雨。「お前、荷物そんだけか」と新百合ヶ丘駅まで当時4年の峰くん(22卒)とソウタくん(22卒)が迎えに来てくれた。僕の地獄はここから始まったのであった、、、

練習初日は1年生だけでクロスカントリーを走ることだった。結果はケツから数えた方が早い。最悪な初日だった。
オフを挟み、火曜の全体練習からボールを触るトレーニングに参加することができた。
しかし、思うようにプレーすることができなかった。
ボールスピードは速い、切り替えも早い、声の量も半端じゃなかった。
大学のレベルは全くの別物だった。

練習が始まって1週間が経ち、練習について行くのが精一杯で、友達も作ることができなかった。その中で、高校時代を思い出したり、地元の友人を思い出すと、「帰りたい。」そう思ってしまった。



その当時、峰くんに相談すると「お前何しにきたの?別に怒ってない、普通にね」と鹿児島の訛りで問いかけてきた。



俺は、当たり前かのように「サッカーしにきました。」と返す。



峰くんは、「だろ。とりあえず一旦飯いこーぜ。」と言い、2人での飯かと思ったら2人の先輩も連れて、4人で飯に行った。

上京してきて、一番楽しい時間だった。

それから峰くんは、俺の面倒を見てくれるようになり、多くの先輩と関わることができるようになった。それと同時に同期とも関われるようになった。

(手前:峰くん  奥:自分)


「お前どこから来たの?」「名前なんていうの?」「部屋どこ?」と質問攻めをしてくる奴がいた。大河原陽(4年/山形のお喋りくん)だった。この日を機に陽とは毎日行動するようになり、当時はオンライン授業だったので、朝練が終わると陽の部屋で昼寝をして、昼ごはんを食べて、授業を受けて、自主練をして、夜ご飯を食べるといった半同棲のような状況になっていた。ほんと俺のこと好きだね。



それから2ヶ月が経ち、チームにも慣れてきた頃スタートのカテゴリーはIリーグだった。

それでも、3節目を終えた頃には1得点3アシストの結果を残せていた。5月にはトップチームに昇格し、関東リーグでも多くの試合に絡むことができた。

しかし、自分のプレーを出せないまま、1年間が終わってしまった。

2、3年目もトップチームでちょこちょこプレーをしていたが、関東に登録してもらうことはできなかった。



そして、4年目。



社会人登録だった。



あっけなかった。



4年目でトップチームにいなかったら、プロを目指すのはやめようと思っていた。

社会人登録を受け止めて、2月に就活を始めた。毎日夕方まで就活。多くの面接、説明会に参加した。

何か違う。何も楽しくない。大手に入りたいわけでもない。
でも、自分からサッカーがなくなったことを考えると、就活せざるをえなかった。

その時、家族や友人、仲間から
「就活どんな感じ」と問われた。

これを聞かれた俺は適当に流していた。

家族からは「やりたいことやりな。それを応援するから。」と言ってくれたが、金銭面のことを考えるとこれ以上親に迷惑はかけられないし、続けることは厳しいかなって感じる部分もあった。



その時、晴暉が就活の話をべらべらと話してきて、俺の就活状況を話す番がやってきた。話そうと思った瞬間

「お前にはサッカーしかないっしょ、お前俺よりうまいんやし(笑)」

晴暉からすれば適当に言ったのかもしれないが、俺からすればすごく今の俺がある言葉だった。

去年の先輩たちのおかげで社会人は関東リーグに昇格することができた。
そのため、Bでもプロになれる可能性が広がった。

それなのに、俺はトップに上がれなかったことで、プロになることを諦めていた。
親のことを考えると辞める理由をどこかで探していた。


でも、自分の中で色々考えて、やっぱり「サッカーが大好きで、負けたくない、プロになりたい。」


そう思った。


4月には、就活を辞めて、もう一度1年間本気でサッカーに熱を注いだ。

仲間に高い要求をしたり、思ったことをすぐ口にしてしまったけど、社会人のメンバーはそんな俺を全部受け止めてくれた。


ここまでの話を振り返って、この14年間サッカーを続けてこれたのはここには書ききれないほどの色々な人の言葉や支えがあったからだなと感じた。

自分自身まだ進路は決まっていない。
今まで自分を支えてくれた人、関わってくれた人に恩返しすることは結果を出すことだと思うので、結果が出るまで、恩返しができるまでドリブルでチャンスを作り続けます。
これからの宇宿響世にどうぞご注目ください。

最後に

同期へ
本当にたくさん迷惑かけました。寝坊をしたり、遅刻をすることでみんなに迷惑かけたし、申し訳ないと思っています。人といることが大好きな俺は必ず誰かの部屋にいる。みんなは迷惑だったと思うけど、あの時間が最高に楽しかった。本当に個性的な4年で、静かな奴もいれば、馬鹿みたいにうるさい奴もいる。話せば、止まらないぐらい個性的な奴らで人生で忘れられない時間になった。

ありがとう。

祖父へ
あなたがサッカーをやっていて、ボールを蹴ってくれたことをきっかけにサッカーを好きになった。試合があると毎回びっしり反省やアドバイスを書いた紙を持ってきてくれたね。それがあったおかげで大学までサッカーを続けてこれました。本当にありがとう。これからもっと大きな舞台でプレーできる選手になれるように頑張ります。

両親へ
感謝しても感謝しきれない。
面と向かって感謝の気持ちを伝えることは苦手なのでここで伝えさせてください。
父親、試合でプレー中にスタッフの声と同じくらい父親の声が聞こえたことをを思い出します。プレーが悪かった日の帰りの車では、毎回怒鳴られて、家に帰っても寝るまで怒鳴られてた。たまには打たれて、サッカーの道具を全部外に投げられたこともあった。それでもサッカーを辞めようとは思わなかった。それは、サッカーが好きなのもあったけど、いいプレーをした日にすごく優しい笑顔や本気で喜んでる姿を見た時、俺の中でのサッカーをしてて良かったと思える1つの瞬間だった。毎日働いて遅くに帰ってくるのに、土日は送り迎えや金銭面で支えてくれてありがとう。
母親、仕事をしながら家事や毎日の送迎をしてくれることがどんなに大変か寮生活を通してすごく感じた。小学生の時何も考えず食べていた食事がすごく俺のことを考えてくれていたことや試合の時は毎回ビデオを撮って反省できるようにしてくれていたこと。これらのことが今の俺を作ったのだと感じました。毎日休みなしで俺中心の生活をしてくれて本当にありがとう。

そして弟妹、生まれた時からずっと俺がサッカーをやっていたことで、公園に遊びに行ったり、ゆっくり遊んであげれなくて申し訳ない気持ちでいっぱいだった。試合があると毎日ついてきてもらって、遊び道具はいつもサッカーボールだったね。
これからは時間があったら、帰って遊んであげたり、いろんなところに連れて行ってあげたいと思う。
自慢できる兄貴になります。

他にも多くの方々にメッセージを書きたいし、多くの方々のおかげでここまでやってこれたと思っています。

学生時代サッカーをやってこれたことは俺の財産です。

長くまとまらない文章になりましたが、読んでいただきありがとうございました。
まだ2ヶ月サッカー部での活動は残っていますので、引き続きご支援の程よろしくお願いいたします。

宇宿 響世(うすく きょうせい)

〈経歴〉
アンリジュニアFC→太陽SC鹿児島→鹿児島実業高校

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