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別れの痛みの正体は、「会えなくなること」ではなく「その人との分人を失うこと」だった

平野啓一郎という小説家が唱える「分人主義」をご存知ですか?

大学時代に読み直して以降(何も良さがわからなかった高校時代から大手の平返しを起こして笑)、平野作品を愛してやまないのですが、中でも分人主義は、「もしこの考え方をインストールしていなかったら、この苦しさをどう消化していたんだろう」とうすら怖くなることもあるくらい、信奉ではないけれど、たまに参照して、いざという時そこからヒントを得ているような、考え方です。

分人主義の意味するところは各々調べていただくとして、幹となる考え方については「まぁ、そういう考え方もできるネ」という感じで抽象的ゆえに受け止めやすいと思うのですが、問題はその先。分人と分人、分人と個人の干渉や、死別や離別の喪失感、といった枝葉は、これまでの経験や他の主義主張、価値観によって、受け止め方が人によってかなり変わってくるんじゃないかなと思います。

私は、分人主義に深く入り込んだ当初は言っていることを取り込むだけでしたが、その後、いろんな出会いと別れ、関係性の変化等々、人間関係の変化や悩みが生じるたびに、思考の補助線として随分助けられてきました。

(余談)結局、こういうちょっとしたパラダイムシフトみたいなことって、衝撃はインプットした瞬間が一番大きいけど、それに対して自分がスタンスをとる(理性的に支持する、自分の一部になる、明確に反証したくなるとかいろいろ)というのは、個別具体的で、些末な出来事を通して初めて叶うことだなと思う

ここ 1 ヶ月で、久々に、現実の出来事を通して、平野さんの言う「分人主義」がストンと心に落ちる機会があったのでその記録を。

まず前提。前後を端折りますが、分人主義に則れば、離別の悲しみは「その人との間に現れる自分の分人をもう生きられなくなること」だと言います。

大好きな祖母を亡くしたら、祖母といた時にしか立ち現れない分人を生きることはできない。

バカばっかりやって、いろんなことを晒してきた友人を失えば、その奔放で、かつ健やかな分人は、あなたという「個人」を形成するいち「分人」としての割合は減り、やがてなくなる。

…うん、わかりやすい。わかりやすいのだけど、恵まれたことに、ここ数年そこまで大きな別れがなかったこともあり(その前は尋常ではない別れ続き時代だった)、後付けでしかこれを説明できなくて、自分の頭では 5 年近く保留にされてきたことでした。

それが、先月半ば。
うおぉ~これか~という感覚を味わえたのです。

別れは、入社以来いちばん側で、いちばんお世話になった上司の退職というもの。

えっ別れの種類として軽くね?と思ったそこのあなた。笑

私もそう思ってた。毎日どこかで起こっていることだし、パーソナルな関係ではないしって。でも案外この喪失感は大変なもので、そしてそれに説明をつけてくれたのは、5 年も頭の端も端でペンディングにしていた分人主義でした。

退職を機に、(予想通り)人間関係的にも業務的にもかなりハードモード☆に突入。メンタルをフラットに健やかに保つのにも結構パワーを使う日々でしたが、それを見た同期や先輩が誘ってくれて、そこで自分の気持ちを言語化する度に気づいたことがありました。

それは、いちばん大きな"サゲ"の要因は、「他人と協力して何かを成し遂げる行為としての仕事」とか「新卒らしい成長の過程」としてとても大事なパーツを失ったことだということ。

具体的に言えば、退職したことで業務量が増えたり、新たな体制の不備にいちいち削られていることではなく。その人に相談したり、評価に値するような次のアクションを考えたり、フィードバックを少しへこみながらも有難く受け取って、少し変化が出て、嬉しい言葉をかけてもらったり、そういう営みがまるっと消えてしまった。生粋のかかえこみ体質の私でも、やらかした時やどうしようもないモヤモヤを逐一相談させてもらっていたし、能動的に何かを変えようと動く自分を引き出されていた。

そういうふうに物事に向き合い、不器用なりにまっすぐに進もうとする自分を引き出してくれる人で、彼がいなくなったことで、そういう自分(分人)が少なくとも一時的には消えてしまった。

それこそが、退職後にガタッときた心の揺れと、今でも癒されきれない喪失感だったのだなと、最近になってやっと言葉に出来たのです。

あ、決してその上司がいちばん自分を買ってくれていたとか、彼がいることで私の立場が良かったとかいうことではないということは言い添えておきます。

もっと定性的に、そして超絶主観的に、自分が良いと思う分人を、私という個人を形成するなかでも特に愛しくて大切にしたかった分人を失ってしまったがゆえの切実な痛み。

正直、死別じゃないし今も連絡取り合うから、会おうと思えば会えるわけですよ。でも、どうしてもその分人を生きる時間(ウェイト)は比にならないほど小さくなる。それを鑑みると、「もう会えない…」というカードなき別れにしては大きすぎて持て余しているこの喪失感も、分人主義を採ると説明がつくなと思うわけです。

と、ここまで未練たらたらで書いているように、全然"乗り越えて" はないけれど、必要な仕事はそれでも日々発生して、退職のおかげで回ってくるチャンスもあるわけで、いなくなって 1 ヶ月。こうしてあの分人がいない個人が再形成されていくんだなとどこか他人事のように眺め、粛々と仕事をしています。

コントロールできない別れはそうやってやりくりしていくしかないよね、というあきらめはあれど、やっぱり言語化したことで救われた部分は大きい。ということで、久々に note を書きました。

そろそろ力尽きてきたので、オチはないけどこの辺で。


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