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夢の中で死んでみた
夢の中だとあまり理屈なしに現状を理解します。
気づくとそこは天国だったとすっとぼけたような
セリフが成り立つ世界線。
そんなふざけた世界での出来事。
いわゆる、どうでもいい話です。
天国には関所があった。
天国の関所は初めて来るが新鮮さというより懐かしい雰囲気を感じた。
まるで小学校の廊下そのものだったから。
ただ、全ては白で出来ていた。白い床、壁、天井、それから白い窓枠と..。白じゃない部分と言えばガラスぐらいだ。
天国の関所とはその教室の一室だった。関所と言えば通過する先があるものだと思っていたがここでは違う。
一度その中に入りグループ単位でセミナーのようなものを受けるらしい。それが関所の役割をしてるようだ。
関所の扉の前には案内人のレディが立っていた。
シェフハットをかぶり、上まで閉めたシャツとテーラードジャケット、膝下ほどのプリーツがはっきりとられたスカートにパンプス。
この場にふさわしい全て真っ白でコーディネートされた制服をとても着こなしている。そんな綺麗なレディだった。
その人が各グループ単位で案内しているらしい。
「次のグループの方々こちらへどうぞ!」と見た目の雰囲気とはうって変わってとても活気のある声で呼ばれた。
何かの体験コーナーに引き込まれたようにその関所に入ると少し変わった空間だった。
部屋のサイズは丁度30人程度入る教室のようだったが、窓が廊下側以外ない。
その空間に角はなく丸みを帯びていた。
床はちょうど中心で緩やかに一段下がっており、そこからやや傾斜のある床になっている。だから部屋の奥は少し天井の高いゆとりのある空間に思えた。
境界となる線が無いせいで、空間そのものが曖昧に見え少し酔いそうになる。
中に入ると廊下に沿うように一列に並ばされ、
何もない壁に向かって約12人ほどが並んだ。
すると案内人のレディが言った。
「本日はお集まりいただき誠にありがとうございます!現在、皆様は死の瀬戸際にいらっしゃいます。ここではこのまま死を選ぶか、生き続けるかの選択をして頂きます。教室の手前がまだ生きたい人、一段下がった奥があの世に行く方々になります。それではお好きな方にお座りください。」
自分が何故死の瀬戸際に立たされているのかはわからないが、とにかく私は死にかけていることをそのレディの言葉で実感した。
自分の置かされている状況を認識し始めた頃にはすでに全員がぼろぼろと動き始めていた。
とても不思議に思うだろうがここにいる人たちはわりとすぐに自分の生死を選択する。
なぜなら今は楽に生死を選択できる。ここでの選択は死ぬ死なないの概念ではない。死ぬ怖さもなければ、死ぬ痛さもない。あるのは現世に戻るかこのまま楽になるかの選択だ。卑近な表現だが現世に戻るのは出勤するようなもので、このまま楽になる選択は自宅で休暇をとるようなものだ。だからとても気が楽に人生のピリオドを打てる、そんな気持ちだった。
私も少し悩んだ。このまま生きていて自分に何かあるのだろうか。いずれ人間は死ぬ。人生のゴールテープを今切るか後で切るかに過ぎないだろう。仮に生き続けたとして、そして何かを成し遂げても死後の世界に持って行けるのは何もないのだから。事実死後手前のこの世界にあるのは自分そのもの以外なにもない。
そして、私は一段下がった奥の空間に腰を下ろした。
まだぞろぞろ動いている人たちがいる。
私はその足音を聞きながら、全校集会をまつ生徒のように体育座りで目を伏せた。
足音が止んで、少し間を置いた後レディが喋り始めた。
「では生きる選択肢を選んだ方は関所を出て廊下を左へ進んでください!人生を終える選択をされた方はこのままそこに居続けてください。ではお願い致します!」
またぞろぞろと人の足音が聞こえはじめた。
私はただ座って消えて行く足音を耳で眺めた。
気づけばその関所には計5人ほどが残っていた。
決してはりつめた空気とかではなかったが沈黙がその空間を包んでいた。しかし空しい気持ちではなくどこか安堵の気持ちで満たされていた。ぞろぞろ人がでていってから10分ほど経つ。廊下にはまだ次のグループが待つ声がする。
足が少し痺れ始めたころ案内人のレディがいつもの口調とはうって変わって話かけてきた。とても落ち着いた気品のある口調だった。
大衆に声をかける時は大衆用の、個人との会話には個人との会話用の落ち着いた調子で話せるらしい。
「お疲れ様です。少し長い旅でしたね。」
私は「あぁ、どうも」と少し照れくさそうな簡易な返事をした。
「この場で死を選ばれた方にご案内しております。それは今後生きていた場合の人生をダイジェスト的に見れるプランになります。このまま人生を終えられてもいいですが折角なんでどのような人生になっていたのか興味で見ていかれる方もございます。いかがなさいますか?」と聞かれた。
なんだかちょけた話だなと思い少し笑った。それと同時に素直に自分も興味が湧いた。私は死ぬ選択をした。仮に人生を豊かに生きれても死後には何も持ち帰れない。けど仮に生きていたら自分は本来どんな人生を送っていたのだろうという純粋な興味だった。
「それは僕の人生を二時間ほどにまとめてくれているということでか?」と少し皮肉に、少し卑しい顔をして見せて聞いてみた。
すると案内人のレディは「まぁ、大きくは間違っていないです」とにこやかに答えてくれた。
「厳密には人によって視聴時間に多少の前後はありますが体感ではそれぐらいの時間でご覧になられます。いかがしますか?」と聞かれたのでそのまま是非と答えた。
「では背面の壁に写し出されますので是非ご覧になってください。」と何もない壁をレディが指差す。壁にプロジェクターか何かで写し出すらしい。
言われた通り私は何もない白い壁を見つめて少し待った。周囲がどんどん暗くなっていく。そういえばこの空間はまるで天窓から自然光が入っているかのような明るい空間だが照明なんて見当たらない不思議にその時気がづいた。だが、そんなこともうどうでもいいかと思い写し出された映写される範囲だけがわかる薄グレーを眺めていた。
「私が生きていたら」これは私が勝手にタイトルをつけた。単純にタイトルを作ってはくれていなかったから少し寂しので適当につけた。
映像は唐突にビル郡のカットが写し出される。
複数のビルと、鳥と、人と、公園と。
そして自宅からただ出勤する私が流れてきた。
お、日常の私だ。なに不自由ない、日常の私がそこに写っていた。
毎日の出勤は他の誰とも変わらないし当たり前だが自分でも何一つ特殊じゃない。映像の中で私は電車に揺られ駅に着き、都心の出勤勢に混じっていた。
人混みのなかを歩いている時、人はこんなにもいるのだなと感じる。そしてその密度にしんどくなる。けど俯瞰から見れば私もこの人混みの一部で人混みを作る原因の一部だ。
地下を歩く無数の頭はあらゆる規則的なリズムでつくられた不規則な波を作っている。
地下であるく無数の頭髪はまるで蟻になった気分だったし、フォルムで見れば腸のひだを見ているようだった。腸と言えば複数のひだによって栄養が吸収され体の健康を支えている。
人間を腸でとらえると体は社会に思える。だからこの人混みを絵に描いて作品名は新陳代謝なんてどうかなと考えていた。私は映像と共に当時の気持ちを自分でナレーションしていた。
私は相変わらず人生を人並みに一生懸命生きていた。何に役立つかもわからない勉強と仕事で必要な勉強。自分が今後なにになりたいかもわからず、ただ、いつか良いことがあるだろうなんて安易な考えを持ち合わせて。お陰で相変わらず苦しんでいた。せめて前進したい。行動しない後悔より、行動して悔やむほうが経験という財産は増えるから。そしたら「きっと良いことがある」と考えて。
でも、その希望の言葉が定期に僕を傷つけた。やってもやっても、その答えは出てこない。空しいばかり。でもとにかく続ける。ただ、頑張る。
すると、どんどんしんどくなってきて。そして自分に言い聞かせる。
「きっと良いことがある。」
もはや自分のマゾを満たすことが私の目標なのかと思い始めている。
そんな事が繰り返しては形を変えて、繰り返しては形を変えて繰り返す。ただ、その時々は傷ついてはいるが人間はなんでも慣れる生き物だ。どれだけ辛い状況であっても心にくる悲しみは慣れる(もちろん喜びだって同様にだ)。苦しんだ次の日にはそんな状況を皮肉って笑っている。僕はただ定期に苦しみはするが不幸の中に生きる人ではない。
これをたわいもない人生というのだろう。そんなたわいもない人生が淡々と描かれていた。そんな人生が壁に映し出されて、三十代、四十代、五十代、六十代と。
私の人生はそのまま淡々として、そして死んでいった。死に際はどこかの家だった。自分の家なのだろうか。見たこともない私の落ち着ける場所で、好きなものに囲まれて。椅子に座ったまま息を引き取ったように見えた。
決して大きな何かをなしとげた訳じゃない。これは主観で見る自身の感想だ。しかし、それを俯瞰でみた私はとても実りある豊かな人生を歩んでいるじゃないかと感じた。自分の目にはその豊かさは正確には映らない。でもしてきたことは無駄ではないということだけは大いに感じる。
「きっと良いこと」は少しずつ手にとってわかる。
私はその重みに気づいていない。
人はその変化量を見て豊かさ等を思う。
私は気づかないその少しを積み重ねた人生だった。
そこには失敗も成功もない。
「少し」という自分に対する財産が積み上がっていく。
少しが積み重なって大きな重みを持ってもその重さを認識していない。この鈍感さが人のユニークさであり、強みなのだと強く感じた。
改めて実感することは、死後の世界には生きてる世界で培った物は何も持っては行けない。全て無に帰することに代わりはない。
ただ、自分が人に与えたものは生きている世界に残り続ける。自分が手にした財産は誰かが手にとって、次へ次へと与え続ける。与えるとは受け取り手の感受性に帰属する。芸術はそれを与えられた人間がその意味を見いだすように、あらゆる概念や事物も同様なことが言える。つまりこちらの意思で融通を効かすことのできるものではない。しかし、どのようなものであれ一つの財産を与えていることに変わりはない。
生きてきた過程の中で様々な人に出会う。そして様々な人にあらゆるもの与えられ、与え続けていた。
私の人生はコミュニティという複雑な網の先にある糸に過ぎないことがこのダイジェストで大きく感じた。
あくまでこの映像は私に焦点を当てていたが、他の人に焦点を当てても形は違えど豊かさの蓄積がそこにはある。そしてそれが人の数だけある。
つまり世界規模でかつ現在進行形で進んでいる事実の壮大さを感じた。その糸で紡がれた網は蓄積でより密度を増し大きなテキスタイルを生む。
それを総体して人は歴史と呼んでいる。
すると歴史は世界を包む衣服のようだ。
僕はとても後悔した。
今ここで人生を終える選択をしたことに。
僕はまだ生きていれば与えれたはずのものを与えれていない。自分の豊かさばかり考えて、結果残せるものは与えたこの世にしかないのに。
目先には何もない。しかし、歩んだ軌跡に財産がある。与えれる豊かさを僕は途中で諦めた。紡ぎあげた歴史の総体が世界を包む衣服なら僕はこの世界オシャレ計画に貢献しなかったと言える。今あるのは死後の世界には何も持っては行けない事実を経験して理解しただけの人にすぎない。
愚者は経験に学ぶなんてまさにじゃないか。
心の空しさを後悔で埋めて悲しさで沢山になる。
久々の後悔だ。取り返しがつかないことがなによりも苦しかった。僕はもう人生を終わらせてしまうんだなと考えて。でもふと思い返した。
もう死ぬことが決まっているならその死ぬ間際までなにかしてやろうと考えた。
僕は今死の手前にいる。けどまだ死んではいないのは確かだ。自分で死を選択しておいて死の手前であがいてる様はあまりにも滑稽だが、そんな残念さは天国で笑い話にでもしてやろう考えた。
すると、まるで自信のお化けに取り憑かれたように意気揚々と立ち上がった。つい先ほどまで肩を深く落としていた人間がいきり立つ肩パットをはめたように立ち上がったことに気分で人間はどうにでもなるなと感じた。
そして後ろに立っていた案内人のレディに姿勢は清く、口調は少し申し訳なさげにわがままを伝えた。
「やっぱり長生きしたいんですけどいいですか(笑)?」
なかなか身勝手な発言にレディは笑っていた。僕も笑うしかなかった。ただ笑って、、笑いながら目が覚めた。
なかなか興味深い夢だったので書かざるをえませんでした。セルフクリティカルシンキングといいますか、視点が天界際でものを考えるなんてしたこともなかったので(笑)。
もし、この長い長い文章に付き合ってくださった方がいらっしゃれば大いに感謝致します。
これを機会になんだか長生きがんばりたいなと思いました(笑)
皆さんは何か最近ハッとさせられたことはございますか?
そんな話是非聞いてみたく思います。
ご拝読ありがとうございました。
面のゆりかご