ニーチェとサンタクロース~「信じる/信じない」と「意志」~
こんにちは!
日恵です!!
もう12月に入って久しく、街にクリスマスソングが流れてきたね! 気が早いな~と思わないでもないけど、世界中の子供たちにプレゼントを配るサンタさんは、ずっと前から準備してるだろうからそんなに早いわけでもないのかもしれない! わかんないけど!
……って、え? 「君はサンタの存在を信じてるのかい?」って??
うーん……「信じる/信じない」は、難しい。サンタクロースは「居る」し「居ない」。私はそう思っているわけなので。
え?「それってどういうことか」って?
……それを説明するには、ニーチェについて、彼の「意志」についての話をしないといけないね(計画通り)。
フリードリヒ・ニーチェ。19世紀、ドイツに生まれた哲学者。
哲学に触れたことのない人でも名前くらいは聞いたことがあるかもしれない。「神は死んだ」で有名な「実存主義」という哲学の第一人者。
「神は死んだ」
この言葉がニーチェのほとんどを言い表している。
そしてあとに続く
「私たちが殺した」
という言葉。
でも「神は死んだ」それも「私たちが殺した」なんて言われてもさ「は??」ってならない? それってどういうことなのか? って。その説明にうってつけなのがサンタのこと。サンタを「信じる/信じない」ということについて。
……例えば、クリスマスイブの深夜。偶然目を覚ましたあなたが、枕元にプレゼントを置くお父さんの横顔を見てしまった時。次の日、お父さんに「サンタさんのプレゼント、なんだった?」と聞かれた時。その時々に産まれた感触が、既にあなたをニヒリストにする。サンタはいるとされてるけど、いないことをあなたは知ってしまった。あなたはお父さんの横顔を見た。「サンタ=お父さん」を科学的に実証されて、その認識があなたと世界との断絶を産み出してしまう。そして神の死は、意味を失った者……ニヒリストを産みだしちゃうんだ。
つまりニヒリストは「あなたと世界が分裂した状態」を表すんだ。これが有名な「神は死んだ」という状態で、後に続くより重要なのが「あなた方が殺したのだ」ということ──あなたはあなたがサンタを信じることを、あなた自身が許さない、ということ。
でも、その「あなた」を許さない「あなた自身」って、なに?
それについて答えるには、ニーチェの語る「意志」について説明する必要がある。
「意志」についてニーチェはこう語っている。
これはどういうことかというとね「意志」っていうのを私たちは「意志=ただひとつの単語」って言っちゃってるけど、実際は「ただひとつの単語」じゃなくて「複雑な物」なんだよね。実際さ、私たちは「意志」でもってして行動する時にさ、色々な感情や気持ちを伴うと思うんだ。それに+してその時のメンタルとかも影響してくるし、社会の明示/暗黙のルール「社会的道徳」も影響してくる。
親とか学校の先生にさ「夢を追うのも自由だ。あなたの人生なんだから、あなたの意志で選びなさい」みたいなこと言われたことないかな? それを言われたとき、どう答えるかとっても悩んだ(または、悩まなかった)と思う。「自分の意思」を示すためにさ…………でも、その答えって言うのはさ、「あなたの人生」っていう概念──それだけじゃなく、社会的なルール下に存在して居る様々な「概念=言葉」にめちゃくちゃ影響受けちゃうんだよね。「損/得」「美/醜」「安心/不安」「モテる/モテない」……そういうことが大きく影響してくる。
だとすると単一な言葉で表せるような「あなたの意志」なんてモノはない、とニーチェは言うわけ。私たちの「意志」は社会的な概念に服従すると同時に自分の身体に命令している。だから「あなたの意志」なんて、幻想でしかないって。もひとつ引用。
ここで言われる「二重性」というのは、つまり「サンタはいる」という社会と「サンタはいない」というあなたの心(また、これは反転しうることも、もちろんある)で、その葛藤から生まれる複雑なナニカを「私」という便利な言葉があるせいで、その複雑怪奇極まりないモノを一つの「私」という言葉によってまとめ「私の意志」としてしまう。それは幻覚だ、とニーチェは言う。
私は、そのことが何となくわかる。
だって、人によって「悩む/悩まない」が存在することだって「意志」が「あなたの意志」だなんて括れないことの証拠だと思う。同じ状況に置かれても、「意志」は人/時/場によって様々な作用を見せるだろう。
そう言うと「へえ、なるほど。でもそれならば、その一つ一つの差異こそが私たちそれぞれの『私の意志』と言えるんじゃないかい?」という人も居るかもしれない。でも、違う。私たちは「意志」という「持続的」なモノだけじゃなく「環境」という「空間的」なモノの影響から逃れられない。
だから「意志」なんて──とりわけ「あなたの意志」なんてモノはない、って。「私+社会」で一つの「意思」と言う人もいるかもしれないけれど「社会」というのは「他者」的だ。だから単なる「私」と混同してはいけないと思う。むしろその「混同」こそが問題なんだ。
それは「私の意志」という言葉で責任を取らせようとする、取ろうとしてしまう、そういう動きを産んでしまう。「私/あなたの意志で選択したのでしょう?」と。
しかしその実「意志」の選択の自由は「環境」によって強く制限されてしまっている。それが「選択」だと言えるのかな? って多分ニーチェは考えた。
じゃあ、なんでそうなってしまうのだろう? 「環境」「空間」については、前述したように「私たちは無視してしまう習慣」がある。それはなんでなのかというと、前述の社会──社会的道徳について回る話になるわけで、それを説明するには、19世紀ドイツから左斜め奥くらいに跳躍する必要がある。と、いうわけで、
ほっ!
スタッ。
……16世紀の代表的哲学者、フランス生まれのルネ・デカルトは「モノには物質とそうでないモノがある」として物心二元論を打ち立た。そして彼は人間の「精神」を「そうでないモノ」それに対して「身体」を「物質」として考えた。「身体」は「精神」に従う下部組織だと捉えたんだ。
その「身体は精神の下部組織」という認識は根強く残って、それが推し進められて「身体」を「精神」が動かす「機械」として捉える、「身体機械論」が主流となっていった。
「身体」と「精神」は切り離されて、「身体は機械的部位の集合体」とされた。その考え方は医療の発達方向にも影響を与えてたりするんだ。「機会の部品を治すように、トラブルの起きたパーツ──『腕』『足』『大腸』などの──に治療を行う」ようになったのは、そのせいだってどこかで読んだ。どこだっけ?!
それがずっと続いていて、今なお私たちを縛りつけようとする「社会的道徳」──「物心二元論」。その影響で私たちは知らず知らずに「身体」を「精神」に隷属させてしまう。
日本でも今なお「根性論」とか「スピリチュアル」とか「霊」、アートに関する「オーラ」のような、「精神」を特別視する観点が根強い、と私は思ってる。
「気合いで乗り切れ」とか「長男だから頑張れた」とか、そういうのが受け入れられていることが、その証拠なんじゃないかなあ、と私は思ったりする。まあ、そんな単純な話ではないんだけどさ。
その「受け入れ」の話をするために、少し話を戻して、「身体機械論」について話そうと思う。「身体はパーツの集合体」というあれ。
その「身体の機械性」が何故成立するのかと言えば、「精神=意志」がパイロットになるからなんだよね。パイルダーオン! マジーンGO! で、マジンガーZが神にも悪魔にもなるみたいに。
でもニーチェはそれに異を唱えて「意志」はないよ、とした。それでどうすんの? と言うことになるんだけど、ニーチェはそのパーツ群と精神を一つの箱の中に押し込んだんだよね。それは「意志」の所で説明した、「複雑な『精神の様々な情動』と『身体──環境を含む様々なパーツ』」を、一つの空間に投げ入れた! そして、箱はハコ、劇場となったんだ!
劇場には、指揮者と様々な楽器隊がいる。指揮者が楽器隊をコントロールしてるように見えるけど、楽器隊の一つ一つにも意志がある。で、楽器隊は各々の判断で指揮者の指示を解釈して、従ったり、時には反抗したりする。
つまりその演奏はポリフォニックな物で、指揮者も含む全楽器演奏者それぞれの気分とか体調とかに左右されて毎回違う演奏が奏でられるんだ。でもそこに居るメンバーは基本同じ。だから、一定の「私」の持続を保ちながらも「毎回違う私」が産み出される。
またその中では、指揮者だけでなく演奏者同士が指示を与えあったり、指揮者に指示を与え返したりする。誰もが指揮者で演奏者になる。その場では全てがフラットに相互作用して「精神に隷属した私」ではなく「常に新たな『私』」を「私」が発見することになる。まるで古代ギリシャの自然哲学者、ヘラクレイトスの唱える「火」のように。
従来の「私」が指揮者だとするならば、新しい【私】は【私】なのだ。そして、それこそが【意志】になる。
だから、私はサンタを信じてるし、信じていない。その【私】は、クリスマスイブの夜に見たお父さんの横顔にも、街中で誇張されるサンタの瀬戸物にも惑わされず、自分の中で【サンタクロース】を見つけることができるだろうから。
そんな私たちに、【メリークリスマス】!