彼女は唐突に僕の前から姿を消した

彼女は唐突に僕の前から姿を消した。

彼女には一年という余命があった。現代の技術ではどうすることもできなかった。むしろ、一年も持つなら充分だろうという風潮さえあった。

だから、というわけでもないが。僕は彼女と四六時中一緒にいた。寝る時以外は肌身離さず共に過ごすと信じていた。同情からではない。彼女は僕の生活に必要不可欠だったから。彼女の存在は、文字通り僕の視界を鮮やかにしてくれた。

別れは唐突だった。余命を待たずに訪れてしまった。

僕を一瞥する事もなく彼女は、まるで波に乗って攫われてしまったかのように、有無を言わさず去っていった。冗談だろ?なんて言う暇も無かった。ようやく動いた僕の身体が彼女に手を伸ばすものの、儚くも空を切る。静寂が訪れる。

もしかしたら彼女が戻ってきてくれるかもしれない。冗談でした〜と、聞き慣れた声で笑ってくれるかもしれない。そうして目の前で起こった出来事ですら否定しようとした僕は、洗面台の前でじっと彼女を待った。

「現実、見ようよ」

空っぽの頭の中に彼女の声が響いた気がした。心が踊った。けれど、その『彼女』が虚構の彼女である事に気づくのに、あまり時間はかからなかった。

「私はもういないんだよ」

虚構であるはずの彼女にすら、そんな声をかけられて。僕だけは認めたくなかったから、躊躇いなく排水溝に手を突っ込んだ。まだやり直せるんじゃないかって。排水溝のふちに、奇跡的に彼女がへばりついているんじゃないかって。

洗面台のまわりも、床に這いつくばって、きっと誰かが見ていたら僕のことを笑うんだろうなと思えるポーズで彼女を探した。彼女がいなければ…僕は…僕は…何も見えなくなってしまう。

そうして意味もない時間を過ごした僕は、ようやく明日から彼女なしで生活する事を受け入れ始めた。同時に、彼女の存在の大きさを痛感した。後悔しても、もう遅いのに。

彼女との思い出が蘇ってくる。共に大学へ行き、友人と遊ぶ時なんかも無理言ってついてきてもらった。たまに彼女の機嫌が悪く、僕の眼を執拗に痛めてきた。時間がないんだから早くしてくれよと言う僕。虫の居所が悪く、やっぱり言う事を聞いてくれない彼女。僕の眼が真っ赤に染まり、涙が出てきたところでようやく許してくれたのか、ぴったりと僕に寄り添ってくれた。

同時に彼女の姿も頭に思い浮かぶ。ソフトの、1yearの、コンタクトレンズ。眼から外した拍子に僕の手を離れて洗面台を踊り、流れる水に身を任せて排水溝へと消えていったコンタクトレンズ。まだ出会ってから2ヶ月程しか経っていないのに。 

……まぁ、新しいの買えばいっか。3000円くらいだし。あほくさ。時間返せよ。てかしばらくクソダサいメガネで生活せなあかんやん。外出する時マスクでどちゃくそ曇るやん。普通にイライラしてきた。

そう思い直した僕は、楽天で新しいコンタクトを買った。度数、レンズの大きさ、全て彼女と同じ姿形の、新しいコンタクトを。

人間は弱い生き物だ。心にぽっかりと空いた穴をなんとか埋め合わせなければ気が済まない。

人間は都合のいい生き物だ。僕は、さっきまで落胆していたのが嘘のようにスマホを弄っている。もうすでに、彼女との思い出、彼女の声や姿すら忘れようとしている。

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