発散
人の「好き」という気持ちを軽視し侮辱する人は悲しいことにこの世に存在してしまう。
私の場合、父親がその部類に当てはまる。
私が好きだというアーティストを馬鹿にしてけなす。私の目の前で「こんなのが好きなのか」「これのどこがいいんだ」「もっと良いのあるだろ」と言う。
そしてそのアーティストが売れてテレビに出演したり有名フェスに出たり映画の主題歌になったりすると、あたかも昔から俺は知っていたという風にこう言うのだ
「〇〇いつの間にかこんなに大きくなったなぁ」
「もっと違う風な感じならもっと早く有名になれたのに」
「あの時は△△だったのに、今じゃ✕✕だよ、時の流れは速いなあ」
どこの誰が言ってんだよと聞くたびに思う。
あの頃散々馬鹿にしてけなして、私の大好きを「こんなの」と呼んでおいて、いざ世間の目に触れ有名で流行りのものになった途端に手の平を返す。
こんなことを文に書いて発散しようと思った出来事は些細なことがきっかけ。
私の録画リストから私が大事に大事に録っておいた数多くの番組が削除されていたのだ。私の大好きなアーティストが初めてテレビに出演した回、何度も何度も見返し頑張ろう生きようと心の奥底から思える回も全て。消したのはやはり父だった。録画残量が少ないと思い私のリストから削除したらしい。前にも何回かやられその度にやめてほしいと伝えていたが、父の耳には届いていなかった。消したでしょと問うと、
「そんな大事なものだと思わなかった」と返ってくる。呆れる。
私が好きだと知っていながら目の前で侮辱する、反応を見て楽しむ、私が泣き出したら「そんな泣くこと?」と半笑いで言ってくる。
他人様からすればそんなことでと鼻で笑われてしまうかもしれない。
しかし、私にとって私の好きなものは私以上に私そのものなのだ。
父にとってはただの他人であり音楽であり番組であるものは、誰かにとっては生きがいとなるものであるのだ。その誰かが目の前にいるのに。
生きがいを侮辱され、誰が悲しまないだろうか。
私は今回の件を機に、家族の前で好きなものについて話すことをやめることにした。小さな頃からやられてきて、沢山我慢してきた。溜め込んできた。しかし、もう無理だ。もっと早くにそうしていたらこんなに傷つけられることはなかったのだろうか。同じ家族なのだからいつかわかってくれるとでも思っていたのだろう。
無理だったよ。
人の「好き」を軽視し侮辱する行為は人の心を一番傷つける行為。
そんな行為を簡単にしてしまう人がこの世にいることが怖い。
自分の「好き」を曲げず、ずっと好きでいたい。
受け入れてくれる人にだけ、話せばいいし伝えればいい。
自分を大切に、生きていきたい。