人間関係のはなし
私の好きなゲーム、女神転生SERIES。
物語の中で主人公は荒廃した東京で神話に出てくる悪魔と戦い、東京を収めていきます。主人公はもともとただの人であったので、神話に出てくる悪魔と戦いながら、同時に仲間=仲魔にすることができます。
しかし、仲魔にするにはこちらも対価を支払う必要があります。お金から体力、精神力、思想の同調、良き問答、こうした条件をパスしていき、ピクシーからインドのシヴァ神まで悪魔を使役することができます。
女神転生3Nocturneは素晴らしい歴史的な作品でしたね。
人間関係についての傾向と対策について。
仕事を辞めて考え方が甘かったなという部分に気づきnoteを起こしています。
それは特に人間関係に関する考え方や捉え方についての部分です。
私はそもそも物事を冷静に考え論理的に解釈する方向性に重きを置いてはいますが、地頭の悪さと育ちの悪さが相まって、頭の中にあるコンピューターはひどく性能が稚拙なものであると自負しています。
ゆえに人間関係においては諸人の数倍も失敗と修正を図ってきました。
今もなお、新たな人間関係において、人間は新しい人であれば新しいジャンルがあるので常に新しい楽器を弾くような気分で接しています。
誰彼はこうなんだろうとか、~人は~出身はそうなんだろうとかは、なるべく思考の選択肢には挙げないように注意しています。
だが、上はぴちぴちタイトで下ショートパンツの30歳過ぎのとっつぁん坊やは1mmたりとも信用に能わず。
私の最初の教師、親たちは殴って言い聞かせ、食事を抜いてわからせるタイプで『プリーズ』が多いものの、エンジンをろくに入れずに私という車を”なるべく立派で周囲に自慢できる子”という事業計画書レベルでいえば即ボツモノの杜撰なプランニングで人=私を動かそうとしてきました。
実に悍ましい気分になることが多く、また例えるならば「人間全集」という本の数ページ”駄目な人間の例題”を垣間見ることができ、こうした不出来な人間の浅ましさの中に宿る確実な裏切りの信頼性に感嘆を覚えたものです。
人間関係においてプリーズ(要求)だけがやたらに多い者は品がないのではと疑われるという学びになりました。
これから関わる相手に対して大切なことは一体何なのか。
私が思うには、善き行いも、悪しき行いも動機と目的に対して疑いの目を持つこと、相手の地位の軽重・貴賤に関わらず常に大いに警戒心を持ち、初めから大きな諦念を持つことだと私は考えています。
出会う人々は操り人形でもなければ、所有物でもないのだから、希望を先んじてはきっと失望します。間違っても崇拝するようなことを行えば、地獄の窯を舐める目に遭うのではないでしょうか。
昨今トロフィーワイフとかスーパーダーリンという言葉をよく耳にします。
要は隣に置いておいて箔が付く伴侶ということでしょうが、相手に貴賤を求めるようで私は好きな言葉ではありません。
ちなみに私は性善説を重んじる派です。
性善説は、人間にはもともと善の端緒がそなわっており、それを発展させれば徳性にまで達することができるとする説です。
孟子が唱えたその言葉の意味には、人間の本質は悪であるからこそ、人間は善行の要素で己のあらゆるを覆い構成していくという意味であったかと思います。多分。
究極人間は分かり合うことは不可能であると思います。
正義の反対は悪ではありますが、人間関係的に正義の反対は自分自身以外に尽きます。
互いに異なる文化と目的を持ち生きてきたので、共存共栄するには妥協の連続が必要で、社会的ないしは個人的な契約が必要になるかと思います。
相手に期待してはいけません。
欲しいものは自分で手に入れ、して欲しいことは交渉の席で言語化して伝えた方がよいです。相手に与えてほしいもの・ごとは自分が自力で得られるものであるとよいかと思われます。
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