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自分の知らない自分

「長い髪、鬱陶しいなぁ」
不意に夫が口にした言葉に雪は、愕然とした。
大切に伸ばしてきた髪を雪はもちろん、夫も好きでいてくれていると思っていた。
しかし、次の言葉でそれが今では現実ではないことを思い知らされた。

「もうすぐ梅雨だし、短くサッパリと切ろう」
切ろうというが、夫の髪ではなく、妻である雪の髪である。
雪は、恐る恐る聞いてみた。
「短く、てどのくらい?」

「最低でも刈り上げて、耳は出すよね。短い方がさっぱりしてていいじゃん。よし、今から床屋いくよ」

雪は、絶句した。
耳が出るほど短くされて、さらに刈り上げられるなんて・・・・。
しかも、それが最低でも・・・・て。

雪は、腰まである大切なロングヘアを手にすると、思考停止したまま止まってしまった。
夫は、車のキーを手に「行くよ」と言っている。

雪はやっとの思いで声にした。
「髪切りたくない・・・・」
「子どもじゃないんだから駄々こねないの。どうせ髪なんて、また伸びるんだし、一度、思い切って短くしてみなよ。梅雨はじめじめするし、夏は暑いし、そんな長い髪じゃ不快なだけだよ」
じめじめ暑い季節に髪が長くて不快だとしても、それはロングヘアの持ち主の雪が感じるだけで、夫には関係ないと思ったが、雪は涙が溢れ出し、言葉を返すことができなかった。

夫は、雪を車に乗せるといきつけの床屋に連れて行った。

店の前まできて、改めて「髪を切りたくない」と言葉にした雪だが、夫は「ハイハイ。わかったよ」と軽く受け流し、雪の背中を押して店の中へと入っていった。

ちょうど、店に客はなく、雪を散髪椅子に座らせると、理容師は雪の体をすっぽりと包むほど大きなカットクロスをかけた。
「今日は、どのくらい切りますか?」と床屋に聞かれると、雪が口を挟む間もなく「耳回りから襟足を短く刈り上げて、全体に短めに、ドライヤーが必要ないくらい短くしてください」と夫が注文してしまった。
ドライヤーが必要ないくらい、て・・・雪は、想像するだけで喪失感と不安に涙が止まらなかった。
床屋もノリノリで、「奥さん、ずいぶんバッサリいきますねぇ。思いっきり刈り上げてサッパリしましょ」なんて笑っている。
雪は、この状況を受け入れるしかなく、下を向いて止まらない涙を流し続けていたが、床屋に頭を持ち上げられ、髪を切り落されていく自分の姿を鏡で見ざるをえなかった。

床屋は、雪の右の髪をまとめて掴むと、耳上にハサミをいれ、ジャキジャキと一気に切り離した。
ゆうに50センチを超える長さの真っすぐな黒髪が、雪のもとから切り離され、ただのゴミと化した。
床屋は、それを見せつけるかのように「こんなに切りましたよ」と言ってカットクロスの上から雪の膝に乗せた。たった一房の髪だけれど、長さがあるせいかずっしりと重さを感じ、雪は胸を締め付けられる思いだった。
床屋は、横髪を切り落としたあとの、もみ上げから耳上あたりに残った髪の切り口を指でちょんちょんと触ってきた。雪は、長かった髪がそんなところで切り離されてしまったことを感覚を持って思い知らされることになり、鏡を見ないようにしていても、とてつもない喪失感と絶望に襲われた。

続けて左側の髪も耳上で切られると、また、膝の上に置かれた。
鏡を見れば、粗切りされ耳が丸出しになった自分の姿を見なくてはならず、下を見れば切り離された長い髪が目に入り、雪は仕方なく目を固く閉じた。

床屋は、後ろ髪をひとまとめにすると、襟足ギリギリでジャキジャキと切り落とした。後ろ髪は、切られてそのまま床に落とされたため、バサバサという髪が落ちていく音と、襟足にあたるハサミの冷たさ、頭が軽くなっていく感覚に、大切に伸ばしてきた髪をとうとう失ったのだという現実を突き付けられた。
それでも雪は、目を固く閉じ、必死に耐えていたが、急におでこのあたりに冷たさを感じる。
恐る恐る目を開けると、おでこの上の方で、前髪が一直線に切り落とされ、短さのあまりに浮き上がり、おでこが全開になっていた。
恥ずかしさと悲しさでどうにもならなくなり、顔が真っ赤になる雪の姿を夫は見逃さなかった。
必死に耐えている雪を面白ろがり、スマホで動画を取り始める始末だ。

床屋は、大きなバリカンを持ってくるとコンセントをつなぎ、スイッチを入れた。
刃が動くカタカタという音を響かせるバリカンを、床屋は雪のおでこに近づけてきた。
条件反射的に体をのけ反らせ、バリカンから逃げようとする雪の頭をしっかりと押さえつけると、おでこからバリカンを入れた。
アタッチメントがついているとはいえ、坊主にされるのではないかという恐怖心が雪を襲った。
雪は、小さく悲鳴を上げたが、バリカンが髪を刈り取る音にかき消された。
バリカンが通った後は、3センチほどの髪が残るだけで、頭全体を刈られると、長めに伸び切った坊主頭になった。

雪は、呆然として鏡を見ていた。
「なんで、こんなことになってしまったんだろう・・・・」
雪は、屈辱感に苛まれ、怒りが湧きながらも、全ての気力を削がれて声を出すことすらできずに、涙だけが止まることなく流れてきた。

床屋は、ハサミに持ち替えると、襟足から耳回りを徹底的に刈り込んだ。
あまりの短さに、真っ白な地肌が剥き出しになっている。
トップの髪だって、たった3センチしかないのに、周りを短く刈り上げられているせいで、長くバランス悪く見えていた。

トップの髪も梳くようにしながら短くされると、女性らしさを全て奪われ、鏡に映る雪は、やんちゃ坊主のようだった。

夫は、雪のそばに来ると、雪の刈り上げを撫で上げた。
初めて味わうその感覚に、雪は、全身を何かが駆け巡るような不思議な感じがした。

襟足や揉み上げをキレイに剃られると、そのまま椅子を倒され、顔ぞりをされた。
刈り上げられたばかりの後頭部が椅子の背もたれにあたると、ザリザリとした耐えがたい感触に、雪は固まり、あれほど長かった髪がないことを思い知らされた。

顔剃りをされ、前かがみでシャンプーをされると、メイクがほとんど落ち、雪のちびっこ度は更に増して、スポーツ刈りの男の子にしか見えなくなっていた。

雪は、なんの気力もないまま店を出た。
夫は、雪の刈り上げを触りながら、「サッパリしてよかったじゃん」というが、雪は答える気にもならない。
夫が、刈り上げを触ってくる手を払いのけてやりたいと思いながらも、その気力さえなく、夫にされるがまま、刈り上げをもてあそばれていた。

家に帰ると、雪は、部屋に閉じこもった。
夫は、「刈り上げ触らせてよ」とおちゃらけてくる。
雪は、腹立たしさでいっぱいだったが、何もすることが出来ず、声を上げて泣いた。

しばらくすると、雪のスマホがなった。
夫からのメッセージだった。
「メイクしてみて。いつもより、しっかり目に」
雪は、終わることのない夫の身勝手に怒りしか湧いてこなかった。

しかし、冷静に考えると、この髪型でメイクをして仕事に行かなくてはならない。
雪は、何もしたくなかったが、こんなに短く刈り上げられてメイクをしたら、さぞかしおかしなことになるだろうと思い、この髪型で最低限可笑しくないメイクの練習をしなくてはと思い、重い腰を上げた。

今までと同じメイクをすると、なんだか全体がぼけて見えて、歳よりも相当老けて見えた。
仕方なく、普段よりしっかり目にアイメイクをして、濃いめの口紅を塗ってみた。

童顔の雪には、絶対に似合わなかったしっかりメイクだが、なんだか違う。
スッキリとし過ぎた髪型と、少し濃いめのメイクがバランスよく、雪は、今まで見たことのない自分に向き合っていた。
いつも、子どもぽいと思っていた自分が、大人の女性になれたような、不思議な色香が漂い、今までの雪より、断然、色っぽさが増していた。

そっと部屋から出ると、雪の姿を見た夫が「やっぱりね」と言う。
背が高く、スタイルがいいけど童顔な雪には、長い髪よりも、性別を超えたくらいの短髪の方が似合うし、色っぽいと思ったという。

雪は、そんなこと考えたこともなかった。長い髪が好きだったし、可愛い顔立ちも生かしていくことしかないと思い込んでいた。
大切に伸ばしてきた髪を、突然、男性のように刈り上げられたのはショックだったが、確かにスッキリさっぱりとしていて、頭の軽さももちろんだが、何よりも心が軽くなったことに驚いていた。

夫は、雪を抱き寄せると、相変わらず刈り上げを撫で上げている。
そして、雪の耳元で「次は、坊主にしようね」とつぶやいた。
雪は、夫に「変態!」と言って、抱かれている手を振りほどいたが、その顔はまんざらでもなく、「ここまで短くしたのなら、人生で一度くらい坊主もありかなぁ」と思う雪だった。



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